やっぱり遼ちゃんは狡い

 国道を隔てた海辺のホテルで遅い朝食を済ませ、そこから直接海岸沿いの遊歩道に出て北に向けて歩いた。右手には太平洋が何処までも限りなく続いている。波音は静かに、ただ淡々と繰り返している。お互い黙ったまま、時々立ち止まって水平線の先を眺めた。

 水族館の横を通り過ぎると大きな病院のヘリポートが見えてくる。そこで遊歩道は一旦左に折れ国道と交差する。いつもならそこで折り返し、ふたたび海岸沿いの遊歩道を戻るのだが、今日は国道沿いを歩いて戻ることにした。すぐ先では、水族館の専用駐車場に入る車が何台か順番を待っている。

「入ってみようか?」

 海辺の水族館…… ここはずっと避けてきた。マンションから歩いて数分の場所だけど、会話に出すことすら避けてきた。この観光地に家族連れで来たことがあるのなら、彼にもきっと既に心を占める思い出があるに違いない。その場所には取って代われない、そんな気がしていたから。

「うん、いいよ」
 そんな想いを知ってか知らずか、彼は別になんの拘りもないかのごとく軽く答える。これまで、幾度となく誘おうとしては躊躇ってきた自分の独り相撲が恥ずかしくなる。

「一緒に行くの初めてね!」
 思わず彼の左腕に右腕を絡ませた。

「そうだっけ? いつでも行けると思うと意外に足が向かないものだね」
 素知らぬ顔をしてくれるのは彼の思いやりなんだろう。この海辺の町の彼は、もう私のものなのかもしれない。そう思うと、自然に顔が綻んだ。

「私ね、お父さんが生きてる時も一緒に来てないんだよ、ここ」
 気が緩んだせいもあるが、なぜか死んだ父親のことを口にしていた。

「そうだったの?」
「お父さんはあのマンション買って間もなく死んじゃったから」
「そっか。家族の思い出の場所になるはずだったのにね」
「うん。お父さん、あのマンションに来たことあったのかな? 少なくとも家族では来たことないよ」
 彼の左腕に凭れながら父のことを思う。死ぬ間際まで、父の左腕に凭れて歩くのは私だった。
「シーワールドなんて、小学校の低学年以来だしね」
 幼い頃、学校の行事でここを訪れたことはある。ゲートを潜り抜けたその向こうに海が広がる光景は、なんとなく記憶の底で眠ったままだ。その記憶とほぼ同じ景色が目の前に広がっている。入場ゲートのすぐ右手から展示スペースに入ることができたはずだ。しかし、彼はその当たり前の順路には見向きもせず、まっすぐシャチのプールに向かおうとした。

「お魚見ないの?」
「うん。ここに来たらシャチのプールでしょ」
 そう言うと、彼は迷うことなくそこへ向かい、観覧席の最上段近くに座って、ただぼんやりプールとその向こうに広がる太平洋を眺め始めた。時折、シャチの吐き出すザワーという呼吸音が人気ひとけのない観客席に響き渡る。

(何を考えているんだろう…… )

 家族と来た時もこんなふうにここでじっと座っていたんだろうか。急に不安になって私は彼の左肩に凭れかかった。


 そのまましばらく、同じ姿勢で海を眺める。手前のプールでは、飼育員と数頭のシャチが一緒に泳いでいる。その向こうの大海原には、遠く水平線のあたりに数隻の大型船が浮かんでいる。海と空の境目が曖昧で、さらに目線を上げると、空全体を薄雲が覆い、本来のスカイブルーが淡く霞んでいる。

「記憶はすり替わる……」

 遠くに視線を向けたまま彼が呟く。その意味は訊くまでもなかった。きっと彼は今、過去のある日の事を辿っているのだろう。

(…… すり替えて)

 心の中でそう願った。だが、そんな思いは彼に伝わるはずもない。ただずっとシャチのプールとその向こうを見続けている。立ち去り難くここに座ったまま動こうともせずに。

「ねぇ、ベルーガ見たいよ」
 私は立ち上がった。堪えきれずに立ち上がった。
「いいけど。人が多くない?」
 夏休み後のこの時期は比較的空いてはいるものの、ガラガラというほどでもない。人気のショーならそこそこ観客もいるだろう。

「だけど、ここだって人がさっきより増えたよ」
「ここはいいんだよ」
 ここは特別な場所ということだろうか。私は急に腹立たしくなる。
 でも、彼を残してひとりで動けない。まして、彼と諍いになるのはもっと嫌だ。私は、自分の心と身体がバラバラになる感じでその場にもう一度腰を下ろした。

 ドスン!

「びっくりしたなぁ。どうしたの? そんな怖い顔して」
 彼は穏やかに笑っている。いつもと何ら変わりない笑顔で私を優しく見つめている。
 今の気持ちを言葉に出すのはイヤ。だから、私はキッとした顔で彼を見つめた。睨んだという方が正しいかもしれない。

「アハハ、怖い顔だな。行くよ、行く。ベルーガだっけ? 行きます行きます、ほら、行こう!」
 彼はすっと立ち上がった。

「ねえ遼ちゃん…… 」
 彼を見上げながら、強い目線を投げる。

「なに? そんな怖い顔して」
「私は遼ちゃんに合わせ過ぎなんでしょ? それは良くないんでしょ? だったら、遼ちゃんが私に合わせて! これからはちゃんと合わせて!」

 彼の上着の裾を引きながら、じっと見つめた。全部じゃないけど、ずっと思ってきた気持ちを吐き出せた。彼が怒ってしまっても構わないと思った。この場所から、彼が私を放り出して帰ってしまうなんてあるはずないと思ったからできたことかもしれないけれど。

「なんだそんなこと?」
 そう言うと、彼は再び腰を下ろした。

「うん……。 遼ちゃんは思ってても変わらないから」
「そうかも」
 そう言いつつ、彼はまた遠くに目をやった。

 小さな漁船が一艘、風に煽られている。

「やっぱり遼ちゃんは狡い」
「うん」 
「私が合わせなきゃ、遼ちゃんはどうなっちゃう?」
「そうだな…… きっと合わせるし、佳矢~、待ってくれぇ〜、って追いかけるよ」
「ホントに?」
 ようやく彼がこっちに向き直る。

「うん。泣いて縋る」
「…… そこまで言うと嘘っぽい」
「じゃあ、泣いて縋らないか、泣かないで縋る」
 真面目に答えてない。それが悔しい。

「…… やっぱりダメ」
「何が?」
「泣いて縋って」
「アハハハハ、そこか」
 彼の左腕に強くしがみついて、思いっきり頭を彼の肩に乗せた。

「痛っ! そういう逆襲?」
「うん、思い切り逆襲!」
「アハハハハ、佳矢はかわいいよ」
「騙されない。もう騙されない……」
 そう言いながら、思い切り騙されたいと思った。どこまでもどこまでも、幸せになれるなら、どこまでも騙して欲しいと思った。


 部屋に戻ると、彼と激しく求めあった。彼の何がそうさせるのかわからなかったけど、優しく焦らすような愛撫ではなく、激しく強く荒々しく突き上げられた。あまりにいつもの彼と違うので、怖くなった。このまま底なしの沼にでも沈んでしまうかのような、深く深く、どこまでも落ち行く感覚がずっと続いた。最後は空を掴むような危うい感覚だけが残り、そのまま放り出されたような感じがすると、何もできず眠ってしまった……


 …… 夢を見ている

 遼ちゃん…… 私は列車を追いかけている。彼は車窓の内側から私を見下ろしている。いつもの笑顔で見続けている。何かを喋っている。でも何を言っているか、聞こえない。必死に耳をそばだてても聞こえない。
 遼ちゃん…… そのうち彼は喋るのを諦め、下を見ろと大きく手ぶりで私に知らせる。私は下を見る。すると、そこは危うい崖の上で、枕木の間から、深い谷底が見える…… 落ちる!


 その瞬間目が醒めた。
 隣に彼はいない。

「遼ちゃん!」
 思わず大声で呼びかける。
「どうした?」
 ビール片手に、彼がソファーから身をよじってこっちを見た。
「おっぱい…… 丸見え……」
 気づくと、裸のまま半身を起こしていた。
「キャッ! エッチ!」

 我に戻った。抱き合った余韻なのか、身体が重くて何もする気にならなかった。




総合目次 目  次 前  頁 次  頁