遼ちゃん、お父さんみたい

 七時三九分の特急列車に乗るためには、遅くとも六時には起きなければならない。でも、今朝はやけに身体が重い。

「ねぇ…… どうしても帰る?」
 身支度を始めた彼の後ろ姿に声だけで縋る。
「うーん、そうだね。これを逃すと帰りたくなくなるからね」

 何も考えず、決まった行動パターンを守る方がいいに決まっている。習慣になった時間割を一度でも壊せば、その都度重い腰を上げる煩わしさに苛まれる。彼との時間も、日曜日の早朝に終わると身体が覚え込んでいるのだから、もしそれを一度でも破れば、この先ここに来るたびにそのわがままを身体が思い返し駄々をこねるに違いない。
 そうなりたくないと思う反面、今朝はなぜか辛い。彼と離れるのが辛いし、なぜか身体がいつもよりずっと辛い。

「どうしても帰りたくない?」
「…… うん」
 しばらくソファーに座って海を眺めていた彼が、立ち上がってシャツを脱ぎ始めた。
「いいの?」
「だって、姫に合わせなきゃダメなんでしょ?」
「…… 」
 素直に喜べない。だって本当は帰った方がいいことくらい私にもわかる。
「嬉しくないの?」
「…… だって、ムリに合わせてるんでしょ?」
 彼は一度外したボタンを再びかけ始めた。彼にすればこんなに解り易いわがままもない。
「やっぱり帰ろう。帰らなきゃ佳矢が後悔する」
 きっとそうだ。彼を無理に引き留めた罪悪感で、私はダメになるかもしれない。だけど、帰ってもダメかもしれない。彼に気を遣わせた自分を責める気がする。どっちにも動けない気がして、なかなかベッドから起き上がれなかった。

「ほら、起きるぞ。準備して。八時三九分の列車にするから、コーヒー飲んでゆっくり帰ろう」
 彼が豆とミルを探し始めた。帰る間際に気を遣わせていることに耐え難い気持ちになる。
「私がやる」
 そう言いながらベッドから起き上がってミルを引き取った。彼は隣でその様子をいつもの優しいまなざしで見つめている。

「なに? おかしい?」
「わかる?」
「いいわよ、おかしくて。そっちがおかしくてもこっちは全然おかしくない」
「ハハハ、佳矢は可愛くて仕方ない。黙って完璧な妻を演じられるよりよっぽどいい」

 妻…… 

 やっぱり彼はいつも奥さんのことを思っている。でなきゃこんな言葉が出てくるはずがない。
 そう思うとミルを挽く手が止まった。自然に涙が一滴ひとしずく落ちた。

「遼ちゃんはずっと奥さんのことを考えてる」

 絶対に口にするまいと思っていた。私は愛人ですと宣言するようで嫌だったから、絶対に口にしなかった「奥さん」という言葉を口にして、胸の奥から止めようのない感情が溢れ出てくる。

「遼ちゃんは一度だって奥さんのことを忘れてない! 私といても、いっつもうわの空で昔のことを思い出してる! 昔、心から愛した奥さんのことを思い出してる!
 わかるの。私にはわかるの‼ だって…… 私の事、いつも見てるフリだけだから。優しい目で見てるフリだけだからわかる。見つめてないもの。本当は見つめてない。私の中の他の誰かを見てる!」
 止められなかった。胸の内側にあった言葉が、勝手に漏れ出すように溢れた。

 彼は立ち上がってミルを引き取り、無言で挽き始めた。ガリガリガリと豆がすり潰される音が静かに響いた。

 私はその場から離れられなかった。この場から逃げ出すと、本当に彼と終わると思った。彼がそんなことないよ、と抱きしめてくれるのを待った。
 だが、彼は無言のままお湯を沸かし、淡々とコーヒーをドリップさせた。膨らんだ薫りが漂って、少しだけ落ち着いてくる。
 お揃いのマグカップにコーヒーを注ぐ。重みのある音が静かに響いて儀式が終わる。彼はそのひとつを私の前に差し出した。

「コーヒーは豆から挽く手間がいいね」
 彼はそう言いながら、ゆっくりカップを口に運んだ。

「ボクね、何事も手順を辿るのが好き。一見無駄なようだけど、物事は結果よりそのプロセス自体に楽しいことが多く詰まっている気がする。
 なぜみんな焦るんだろうって思うよ。みんな結果が求められるから仕方ないんだろうけどね」
 彼は窓に広がる海原の景色を眺めながら静かに語り続けた。

「ちょっとメンタル弱っちゃった支社長って、若くて優秀なんだよ。そいつが、急に変わった。部下が全然思い通り動かないと言い始めて、周りとの関係が悪化したんだ。そのプロセスを聴いてるとね、つくづく不幸だなと思った。
 結局、結論を急ぎ過ぎたんだと思う。新興住宅地で急拡大しているエリアだからね。周囲の期待も大きいんだよ。その期待に応えようとし過ぎた。理屈で正しい選択なのに、部下たちはなぜ理解しないんだと苛立つ。その気持ちはわからなくもないけど、それだけじゃ人は動かないよね。というより動けない。彼の部下に市来みたいなのがいたら、やっぱり給湯室で毎晩泣くんだろうなって思った」
 彼は私と共通する過去の記憶を呼び戻そうとした。

「市来さん…… 遼ちゃんにホント感謝してた」
「なにもしてないよ、ボクは。彼女はただ、ある業務に向いていなかった、ってだけだよね。
 それがそれほど重大な問題なんだろうか、って思ったんだ。たったそれだけで、人の価値を決めつける周りはどうかしていないか。そう思っただけ。だって価値はひとつじゃないでしょ?」
「うん。うちの京極さんって支社長代理も、その人が笑うだけで支社が和むの。だけど失敗した途端、悪く言う人もいて、すごく変だと思った」
「そうか。でも佳矢が味方なんだろ?」
「うん。タリーズ同盟なの」
「それなに?」
 そう言って彼が笑った。私も笑った。

「朝ね、下のタリーズに寄ってコーヒー飲んでから出社するの。私がいい人と思う人とだけ」
「アハハハハ、なんだ、浮気の告白か?」
「ヤキモチ焼く?」
「あー、妬けるね。ひどい女だ!」
 そう言って彼はもう一度笑った。私もつられてもう一度笑った。
「遼ちゃんってお父さんみたい」
「そりゃ困るな、エッチできない、アハハハハ」
「そうだ、困るね」
 なんて馬鹿げたことを言ったんだろう。でも、確かにそんな感じがした。

「佳矢、ボクと話をするときは、ボクをお父さんと思ってもいい。だから何でも思ったこと言いな。わかった?」
「うん。そうする」
「でも、夜はエッチする」
「…… 」
 俯いてしまった。それは恥ずかしかったからではない。嬉しかったから。

 彼が今抱えている仕事は単なる教育業務ではない。メンタルを病んだメンバーのケアというのも重要な業務のひとつだと知っている。彼は毎日のように組織の中で自らを追い込んでしまう人たちの話をじっと聴き続けているのだろう。その彼が、つかの間の休日、私の愚痴を聞かされるとしたら、彼は一体いつ、誰に捌け口を求めるのだろう。

「遼ちゃんは私といて楽しい?」
「うん。誰といるより楽しい。ひと言も会話がなくても」
「私が駄々をこねても」
「全然平気。そういう佳矢を見ていると、逆にホッとする」
「なんで?」
「ボクといて、もし佳矢が平気だとすれば、その方がよっぽど嘘っぽいから」
「…… 」
 もう一度俯いてしまった。愛されている…… そう思えた。彼も今の関係に安住しているわけではない。むしろ、彼は仕事で出会う弱った人たちに、私と自分を重ねて苦い思いをしているのかも知れない。

 私たちはゆっくりコーヒーを飲み、しばらく思い出話を続けた。
 八時三九分の特急列車にはギリギリ間に合った。東京駅まで、いつもより静かな時間が流れているような気がした。




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