ふん、幸せなくせに

 都内に戻り東上線に乗り換えると、結花のことを急に思い出した。

(そうだ! 昨日、本当に引っ越したのかしら)

 結花には悪いけど、忘れてた…… とりあえずメールしてみる。

『結花、引っ越し終わった?』
 最寄り駅で電車を降りようかという頃になって返信がある。
『引っ越した。本庄のウィークリーマンション』
 本庄? ウィークリーマンション? どうも話がよく見えない。あれこれ考えているうちに電車は駅に着いてしまった。バスを待つ間に続きを打った。
『群馬じゃなかったっけ?』
『伊勢崎なんだって。これでも聞き出すのに苦労したんだから』

(伊勢崎? あれ? 神奈川? 本庄? 埼玉? あれ?)
 頭の中に真っ白な地図が浮かぶ…… 

『本庄って埼玉だよね? あれ? 彼は埼玉県警?』
『この無知やろう! 本庄は埼玉に決まってるでしょ? 伊勢崎は群馬。伊勢崎は本庄の川の向こう側‼』
『アハ、そうなの? そっちのことはよく知らない。広いねぇ、日本は』
『おバカ。いいから遊びにおいでよ。取り敢えず今月はいるからさ』
 バスが来た。返事に困った。少し考えて返信した。

『一度行こうかな』
『絶対来てよ。来週末は? ダメ?』
 週末は…… と書きかけて止めた。週末は彼との時間。でも、結花は大切な老後の保険だ。あまり無碍にもできない。

『できるだけ考えてみる』
 少し経って返信が来た。
『私ね…… こっちに来たけど耐えられない』
 結花がこんな弱気な事を言うのは余程だと直感した。メールではじれったい。

『もうすぐ家に着くんだ。夜、電話するよ』
『夜か。することないんだけどな。でもいいよ。電話して。お願い』
 結花の弱気が気になる。
『来週…… それがダメならその次の週末は必ず行くようにするから』
 バス停に着いた。メールは一旦中断した。


 家までの坂道を上りながら、もし、来週行くとなれば、彼に言わなきゃだなぁ、何て言おう…… と、言い訳を考えてみた。
 彼がダメだということは考えられない。正直に結花のことを話せば理解してくれるだろう。でも、これをきっかけに、彼が家族との約束があるからと毎週の約束を違えることはないのかしら? 渡りに船になったらどうしよう。そんなことまで深読みする自分が悲しかった。


 家に帰るとまた母親が何か買ってきたかと訊く。それを予想してバス停近くのスーパーで総菜を買って帰った。新鮮な魚介じゃないのかと言うから、重いし臭いから嫌だと毎回同じ理由を言う。何なの、まったく。

 夜、あとは寝るだけという格好になってから結花に電話した。彼女に電話すると長くなる。今日は特に長くなることを覚悟した。

「ごめん、遅くなった」
「別にいいけど。明日は仕事だよね」
「うん。でもいいよ」
「あのさ、本庄からそこまで意外と近いんだよ」
「そうなの?」
 地理が良くわかってないが、どうやら熊谷からバスに乗ればそう煩わしい乗り換えがあるわけでもなさそうだった。
「なんだ、そうなの? 大宮まで行って新幹線かなと思ってた」
「明日さ、泊まりに行ってもいい?」
「私は構わないけど。でも月曜日から大丈夫なの? 結花は」
 話ながら週末より平日の方がいいと咄嗟に気がついた。
「いいよ、おいでよ。結花さえよきゃ」
「会って鬱憤を晴らしたい!」
「なんだか荒れそうだね」
「荒れるよ、もう、絶対に荒れる」
「うわっ、なんかマジっぽい」
「マジだよ、マジで荒れる」
「ねぇ、どうしたの? 何があったの?」
「…… 会いに来ないって言うんだよ」
「結城クン?」
 それ以上聞くのが怖くなった。私たちの現実を目の前に晒されるようで怖かった。

「その言い訳が腹立たしいんだよ。アイツ、なんて言ったと思う?」
「…… わからないよ」
「週末は彼女のところに会いに行くから無理だ、ってさ」
「…… うん」
「だから平日に来やすいようにこっちに越したんだよって言ったわけ」
「…… うん」
「そしたらさ、平日は仕事だから行けないっていうんだよ、どう思う?」
「…… うん」
「それならさ、最初から言えっていうんだよ、ったく。こっちが引っ越しでどんだけ金使ったと思ってんだよ」
「…… うん」
「板橋にいた方が都合が良かったのに、だって。ふざけてるよ、アイツ!」
「…… うん」
「板橋にいたって、週末は彼女と一緒じゃないの?って聞いたらさ、あいつヌケヌケと言うんだ」
「…… なんて」
「夜だけなら会えるのに」
「…… 」
「小僧にさ、そこまで言われてセックスなんかできるか!」
「…… 」

 彼女は泣いていた。あの結花が泣いている。理不尽に耐えきれず、この上ない辱めを受けたことに泣いている。三十四歳の女の気持ちを、これっぽっちもわかっていない二十三歳のオスに、なす術もなく泣いている。

「佳矢…… 私もうイヤだ…… 疲れたよ…… もうヤダ」
 とうとう大声で泣き始めてしまった。

 なぜ女は男を求めるのだろう。こんな目に遭って、理不尽という言葉以外に何も見つからず、だけど、これを聞いた普通の大人は、十一歳も年下じゃあね、などと簡単に言い放ち、その言葉はきっと私には、既婚者が相手じゃね、という尖った言葉に変わり、彼女や私の心臓を抉る。
 なぜ求めてしまうのだろう。セックスなんかしなくてもいい。欲しけりゃ昔の彼に頭を下げてやってもらえばいいだけじゃないか、そんなことまで考えた。

「結花、あしたおいで。しばらく、私の家から板橋に通えばいいよ。一緒に通勤しよ、ねっ」
「佳矢…… 佳矢ぁ~~~~~」
 一層大声で泣き始めた。ウィークリーマンションって音は外に漏れないのか? 妙なことが気になった。

「大声出して隣から叱られない?」
「あっ、そうだ」
 急に泣き止んだ。

「本当にしばらく泊めてもらおうかな」 
「うん、いいよ。そうしなよ。仕事終わりにさ、飲んで帰ろうよ」
「いいねぇ、それ。そういうの一度やってみたかったんだよ」
 鼻がぐじゅぐじゅ言っているが、結花の立ち直りは早い。
 短大を卒業して、そのまま家事手伝いになった彼女は通勤の辛さも知らないが、そういう息抜きも知らないのかもしれない。そういう意味では箱入り娘なのだ。

「じゃあ、明日はとりあえず東松山で焼き鳥でもやりますか?」
 もう立ち直った? 嘘でしょ。

「さすがに入りにくくない? 焼き鳥屋さんって」
「平気平気。なんなら私がひとりで先に入っとく?」
 この彼女が若い男に振り回されて泣くのだ。つくづく女は哀しい。

「荷物沢山ある?」
「ないない。着替えと、パソコンだけは持ち歩くけど、あとは…… 佳矢のを借りるよ」
「高校生のときみたいだね」
「あんまり変わってないよ、あの頃から」
「ホントだね。あんまり変わってないかも」
「いい子の佳矢ちゃんと、あばずれの結花ちゃん」
 結花は自虐的にそう笑った。確かに行動は大胆で恋多き女性ではあった。でも、それがなぜいけないのか、その理由を大人の誰一人として聞かせてくれたことなどない。

「じゃあ、明日。東松山」
「何時目途?」
「池袋から一時間はかかるからね。月曜日だし、すぐに出られるかどうかわからないから。一応、十九時半でいい?」
「いいよ、全然。駅に着いたら電話して。どっか場所探しとく」
「わかった」
「佳矢…… 助けてくれてアリガト」
「私もそのうちやられちゃうと思うから、その時はよろしく」
「ふん、幸せなくせに」
 ちょっと嫌味に聞こえたかもしれない。本当のことなんだけど……

 こうして結花が我が家に泊まることになった。学生の頃を思い出して、ちょっとウキウキした。




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