キミが言うと誰に言われるより嬉しい

 出かける前に、今日から結花をしばらく泊めるからと母に伝えた。来客のない家だから、私の友達ですらどう迎えたらよいかわからないようで、母はひとつひとつ私に確認したがった。

「私の部屋に泊めるだけだから何も必要ないってば」
「そんな訳にはいかないでしょ。第一どうやって寝るの」
「もういいから!」
 こんなことなら出かける前に言わなきゃ良かった。

 最近、事あるごとに母親にイライラさせられる。放っておいて欲しいことには口出しするくせに、必要なことは何もやらない。母娘おやこと言えども、こうもすれ違いが多いと同居するのはしんどい。
 世の中はふたりきりの母娘だから仲がいいはずとか、最後は言わなくてもわかりあえると安易に思いがちだけど、それは根本的に間違っている。血がつながっていても、それぞれ別の人格なのだ。他人と同じ、そう考えておいた方が無難だ。

 昨日の結花との電話、朝から母との諍い、なんだか落ち着かないまま池袋に着いてしまい、ざわついた心を少し鎮めようと、私は目につくままに駅ビルのドトールに入った。


「あっ!」
 タリーズ同盟のことに気づいた時には、もう直接支社に向かうしかない時間だった。
(あーぁ、やっちゃった)
 土曜日、遼ちゃんと一緒の時でさえ思い出した京極さんなのに、今の今まですっかり忘れていた。私はつくづく身勝手で薄情だ。


 オフィスに着くと、京極さんはもちろん、ほぼ全員が既に揃っていて、心なしか笑われている気がした。

「おはようございます!」
 片平クンが無駄に元気な大声で挨拶する。
「おはようございます。すいません、遅くなりました」
 遅刻でもないのに謝っている。バカじゃないの、私……

「おはよう! 珍しいね」
 京極さんまでそんなふうに声をかけてくる。
「ごめんなさい…… 」
「アハハハ、二日目にして同盟解消?」
 気にしてないようだから、ちょっと安心。

「待ってたんですよ!」
 片平クンと同期の山際さんまでも高めの明るい声で話しかける。
「彼女も同盟入りですから」
 片平クンは嬉しそうだ。
「何なの? 派閥?」
「峰岸さんも入ります? いいですよ」
「片平はこういう遊びになると元気だからなぁ」
 峰岸さんが笑っている。どうやら、私の知らぬ間にタリーズ同盟は一大勢力になりつつあるようだ。

 気が合う、合わないという相性の良し悪しは、わずかメンバー十名程度の支社でも避けがたい。特に、この前のような出来事があると、それを大らかに見逃せる人と、いつまでも拘る人、相手を低く見てしまう人とでは、大げさに言うと人生観の違いを感じさせる差となって互いに敬遠しあうようになる。そんな時、本来なら心底理解できるまで時間をかけるべきかもしれないが、日々に忙殺されるとついつい考えの近い者同士で集まりだす。それが大人の知恵なのかもしれないが、結局解りあえぬまま陰で反目しあう。今の支社はそんな雰囲気だった。

 私が何気なく口にした「タリーズ同盟」は、京極さんを励ましたい人たちが集まり、そうなると飯田さんや大井くん、笠島さんたちは私たちを敬遠するようになる。
 おそらく、京極さん自身は彼らを特別視して排除する意識はないだろう。彼にそんな底意地の悪さがあるようには思えない。この雰囲気は、若くて正義感の強い片平クンと、彼に想いを寄せている山際さんあたりが主導してそうだった。私は支社内で垣根を作るようで少し気が引けたが、そこに女性筆頭の峰岸さんが加わる意味は大きい。彼女が参加するなら、正義はこちらにあり! そんな気がした。

「木曜日にしておきましたから!」
 片平クンが目配せする。
「えっ? 何?」
「イヤだなぁ、同盟の決起大会ですよ。金曜日は中澤さん、お稽古なんでしょ?」
 習い事がお稽古事に格上げされている…… こりゃ日本舞踊くらいやらなきゃダメだわ。

「あっ…… 」
 結花のことを思い出していた。いつまでかはわからないが、昨日、しばらく泊まればと誘ったのは私だ。彼女が自分から出て行くというまで付き合わないわけにもいかない。

「どうかしました?」
 片平クンが気をまわす。さすがにこれ以上の身勝手は失礼な気がして、結花のことは一旦考えないことにした。

「いえ、すいません…… 気を遣わせてますね、私」
「そんなことないです! 京極さんから中澤さんに合わせろ、って厳命受けてますから、木曜日がダメなら日程いくらでも変えます! ど〜んと任せて下さい」
 若い子はいい。入社二、三年までの若手は爽やかでいい。

「いえ、わかりました。木曜日、決起大会、参加します」
「なになに? 楽しそうね」
 派遣スタッフの宮下さんが興味を示す。当然、片平クンと山際さんが勧誘する。またひとり同盟に加わった。

 先週の支社と明らかに雰囲気が変わった。
『いつも通り、普通に接してあげればいいから』
 彼の言葉を思い出した。
 重苦しい雰囲気がなくなるだけで、私は嬉しかった。


 終業時間になると、私はそそくさとオフィスを後にした。金曜日も一番、月曜日も真っ先に退社する。するべき仕事を放り出しているわけではないから構わないのかもしれないが、やはり周囲との同調性を疑われるのは本意ではない。でも、結花を待たせるわけにもいかなかった。

「お先に失礼します」
 小さく挨拶してオフィスを出た。そこに京極さんが追いかけてくる。

「中澤さん、ちょっと下まで一緒に降りよう」
「コーヒーですか?」
「うんまあ」

 エレベーターに乗ると、幸い誰も乗っていない。京極さんは、少し距離を保ったところから小さな声で話しかけてきた。

「ごめんね、なんか大袈裟な集まりになって。それだけ謝ろうと思って」
「いえ、とんでもないです! あれは京極さんと一緒にいたい人たちばかりですから、京極さんの人徳です」
「…… 中澤さんがそう言ってくれると誰に言われるより嬉しいよ」
「…… 」
「あっ、ごめん。過剰なアピールだったな」
「いえ…… 」
「明日からも、同盟、来てくれるよね?」
「ごめんなさい、今朝はちょっと昨日からいろいろあって、ぼんやりしてました」
「アハハ、そういうところもいいね、中澤さんは」
 タリーズに向かうといいつつ、彼はビルの出入り口まで一緒に来てくれた。

「じゃあ、また明日。お疲れ様」
「…… お疲れさまでした」

 少しだけ気が重かった。私は、こんないい人に思われるような人間じゃない。欲深くて嫉妬深く、愛欲に溺れ、そこから一歩も抜け出せないダメな三十四歳なのだ。美しくもなく、可憐でもなく、本当は可愛げだってない。料理もできない。これといった特技もない。趣味も平凡。センスも並以下。これでどうして彼の前に自分を曝け出せるだろう。
 遼ちゃんに甘やかされて、私は自分を磨いてこなかった。自分を律しているなんて嘘。ただ毎日、同じことを繰り返しているだけ。それが楽だから。

(そんな私なのよ。それでいいの?)

 遼ちゃんはいいと言ってくれる。そのままでいいと言ってくれる。だから彼を好きなのかもしれない。彼が私を認めてくれるから。私のままでいいというから。でも、もし京極さんもそう言ってくれるのなら、私は……

 口に出せない。考えることもおぞましい。私は淫乱なのかしら。遼ちゃんを好きなのに、京極さんのことを考えたりしている。いつもはすっかり忘れているのに、都合のいい時ばかり思い出す。

 これは愛じゃない。少なくとも本当の愛じゃない。
 だけど、愛に変わるのかしら。心を許せば変わるのかしら。京極さんが愛しく思えてくるのかしら……

 わからない…… もう自分が嫌になる……




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