あっちが上手なんだね

 翌朝、いつも通り目覚めると、ベッドの下で結花が丸くなって眠っていた。

「どうする? うちの母親の話し相手してから行く? 私はそろそろ行くけど」
「起きる…… 」
 結花はガラガラ声で眠そうな目を擦った。女も三十半ばになると、と思ったけど、寝起きの素顔は意外にかわいい。そう言えば、遼ちゃんも私の寝起きの顔がかわいいと言って、時々チュってするけど、無防備な顔っていうのは男心をくすぐるものかもしれない。その気持ちがちょっとだけわかった。

 ダイニングに降りると、母親がもう朝ごはんの準備を終えて食卓についていた。
「おばさん…… おはようございます」
「結花ちゃん! あなたもいい年なんだから、いつまでもダラダラ遊んでちゃダメ!」
 開口一番、これだ。
 母は結婚前に小学校の教師をしていたクセが未だに抜けない。娘とその友達は、いつまでも自分の支配下にある子供だと思い込んでいる。母親のこんな態度が嫌で、小中学校の頃は家に友達を連れてこられなかった。唯一、結花だけが馬耳東風で母の小言をやり過ごせる。

「おばさん、私も佳矢と同じでもう立派な社会人…… え〜っと、十五年目になりますから。合ってる?」
「合ってる。いいの、お母さんの言うことなんか無視して」
「そんなわけにはいきませんよねぇ、おばさん。社会人として」
「やっぱり結花ちゃんは佳矢よりよっぽど大人だわ。もう立派な常識人ね」
「ええ、もちろん。その分苦労も多いですから、アハハハハ」
 結花はこの母とですら上手くやる。彼女をお嫁さんにしようかしら。

「それはそうと、毎週毎週ごめんなさいね。あんなところまで付き合ってもらって。毎週だからご家族にも叱られるんじゃないの?」
 結花がほーらきた、みたいな顔をして私を見る。
「全然平気です。私もあの部屋に私物をたんと置かせてもらって、もう我が物顔で使わせてもらってますから。この間はオーディオセットまで入れたんですよ、オホホホホ」
 箸を滑らせそうになった。彼が持ち込んだことをこの子に話したっけ?

「そう? 気に入ってくれてるならおばさんもホッとした。家ってね、人が出入りしなくなると一年もしないうちに朽ちるものなのよ。おばさんの実家はね、一年放っておいたら、庭がジャングルみたいになっちゃって、ホントどうしようかしらってことになったのよ。だから、よかったらこれからも使ってね。お願いします」
「いえいえ、こちらこそ。今度おばさんも一緒に行きません?」
「えへん! えへん! 結花、時間! 間に合わない!」
「そう? じゃあ、おばさん、またお邪魔していいですか?」
「ええ、もちろん。結花ちゃんが来てくれるとおばさん嬉しいの。前はよく来てくれたのにね。中板橋からだから言うほど遠くないでしょ。いつでも来てね」
「ええ、本庄からも近いですしね」
「何?」
「いやいや、冗談です。じゃあ、おばさん、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 母はこの「ごきげんよう」を言っておけば機嫌がいい。その言葉に相応しい家庭かどうかは、冷静に我が身を振り返って欲しいものだといつも思う。


「結花、調子合わせすぎ。あれでマンションのことを思い出したわ、お母さん」
「佳矢、時々おばさん一緒に連れて行って、アリバイ作ったほうがいいと思うよ。だって毎週毎週なんてあまりに不自然だよ。変にこじれる前に連れ出しなさいって。二か月に一回でもいいから。それに……」
 言いにくそうだったからきっと昨日の続きだろう。

「わかってるよ。遼ちゃんはやめろってことでしょ? 京極さんにしろって言うんでしょ?」
「うん、悔しいけどね」
「わけわかんない。人の幸せを願ってくれてるの? 妬んでるの?」
「両方よ、両方。とにかくさ、京極さんっていうの? その人と一度会わせなさいよ」
「えっ? どうしようかな……」
「いいよ、それじゃ鴨川の彼でも」
「ダメ。遼ちゃんは絶対にダメ。あの人は会いたがらない。無理に会わせたりしたら、絶対捨てられる」
「なんかお殿様みたいね。よくわかんないよ、その人に魅かれる佳矢が」
「仕方ないでしょ、好きなんだから。理屈じゃないの」
「あっちが上手なんだね」
「…… 」
「そう恥ずかしがる話でもないと思うけどね。三十半ばの女の会話として」
「恥ずかしいよ、いくつになっても」
「あと十年もすれば平気になって、あと二十年も経ったら無くなる話だよ」
 ふと、人生の長さがメジャーと共に頭に浮かんだ。私が女でいられる時間を具体的な長さで見せられた気がした。

「この前の子供のこと、お互いにシングルマザーになったら助け合おうね」
 今度は結花がびっくりした顔になった。
「佳矢…… 本気で言ってる?」
「冗談に決まってるでしょ」
 ホントは冗談でもないつもりだった。そうなったらどうなるんだろ…… あれから時々考える。

「わぁー、今日も同盟に遅れる! 急いで結花」
「私はさっきから待ってるんだけど」
 入り口に立って結花が呆れたように笑った。


 いつもより少し遅れてタリーズに入ると、奥の方から片平クンの元気な声がした。

「中澤さん ここ!」
 大きく手まで振ってくれている。見ると、京極さんも峰岸さんも既に合流済み。今日のおすすめをカップで受け取って、私も同じテーブルに座った。

「おはようございます、なんだか照れくさいですね」
 すぐ上のオフィスのメンバーが下のカフェで顔を揃えるのが妙に気恥ずかしかった。
「ねっ、仕事でも飲み会でもないのにね」
 峰岸さんが笑う。いつも冷静で考え方に偏りのない峰岸さんが峰岸さんらしく笑う。

「あれ? みなさん紙コップなんですね」
「さすが中澤さん、エコだ!」
「えっ? ここって店内で飲むときはこれが普通じゃないんですか?」
「だって、ゆっくり飲めないかもしれないでしょ?」
「あっ、そうだ……。 私、ゆっくり飲んでいく気マンマンでした、アハハ」
「そういうところ、カワイイっす!」
「片平はいいんだよ、大人の女性に手を出さなくても。ねぇ、京極クン」
 峰岸さんが意味ありげに京極さんを見る。

「そうですよね、片平は山際ちゃんの相手だろ」
「ダメ、そのちゃん付け。セクハラだよ」
「あっ、そうだった」
「というか京極クンも結構おじさん化してる証拠だよ。女性社員をごく自然にちゃん付けで呼ぶなんて、ちょっとおじさん化が進行しすぎだな。志村さんよりおじさんかも」
 峰岸さんは支社長とあまり年齢が変わらないと聞いたことがある。

「支社長は紳士ですよね。ああいうおじさまは好きです」
「中澤さん、それも問題発言よ。おじさまなんて言うと、勘違い男はつけ入るよ」
「あっ…… すいません」
「アハハハ、冗談。こういうの四角四面にやったら普通の会話ができなくなるものね」
「ふ~~~っ。良かったぁ~~~、同盟は吊るし上げの会になるのかと思いましたよ」
 片平クンが大袈裟に息をつく。
「あんただけ例外!」
 そこでみんなどっと笑った。

 私はこういう支社が好きだ。そう…… こういう支社。遼ちゃんがいたあの支社もこんな支社だった気がした。




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