朝、昨夜の気持ちを切り換えられぬままタリーズに寄るのは辛かったけれど、寄らずにオフィスに上がるとまた周囲の人に気を遣わせてしまうと思い、いつもの時間より早めに店に入った。声をかけられるより、かける方が気が楽だと思ったのだ。
(良かった…… まだ誰も来てない)
ホッとして、テイクアウト用のカップでオススメを注文する。
「早いね」
コーヒーの出来上がりを待っていると、後ろに並んだ峰岸さんから声をかけられる。
「あっ、おはようございます」
思わず順番を譲ろうとした。なんて卑屈な習慣だろう。
「片平が張り切っちゃってさ、新しくできた個室居酒屋抑えましたー、って言ってたよ。なんだか笑っちゃうよね、たかが居酒屋でさ、アハハハ」
峰岸さんは私の逡巡に気づく様子もなく快活に笑った。
「おはようございます!」
ちょうどそこに噂の片平クンが現れる。私と峰岸さんは一瞬顔を見合わせて大笑いした。
「えっ?…… イヤだなぁ、こんな歓迎」
さすがの彼も自分が話題になっていたことに気づき、バツの悪そうな顔で苦笑いする。
「京極くんが心配してたよ。あんまり大っぴらにやって飯田を刺激するんじゃないかって」
峰岸さんは京極さんを京極くんと呼び、飯田さんは飯田と呼び捨てにする。この違いが、彼女のふたりへの評価を如実に物語っている。彼女はいい人だけど辛辣で少し怖い。
「実は叱られました…… 中澤さんを巻き込むなって」
「ん? こりゃ本気だね」
峰岸さんは含み笑いで片平クンに目配せする。
「そう思いました」
片平クンがそう応じると、今度はふたりでニヤニヤしながら私を見る。言いたいことは想像つくけど、今朝は遼ちゃんのことで頭が一杯。上手い反応を思いつかない。ふたりも私の反応が鈍いのを見て意外だったのだろうか、話はそれきり仕事のことになった。
「飯田が新しいショップのシェアを貰ったらしいじゃん」
「そうなんですか⁉ あの人、そういう凄いところはあるんですよね」
「あいつは仕事の割り切りが凄いよ。見切ってしまうと一切、手を掛けないから。そういう代理店はぜーんぶこっち任せ。イヤんなっちゃう」
代理店販売制度を採用している以上、販売力があるところに注力するのは当然だろうが、それが露骨だとやはり反感はある。私も飯田さんのようなやり方は好きではない。
「片平はどんな社員になるんだろうね、この先」
早期退職もできる年齢の峰岸さんには、片平クンは後輩というよりむしろ息子と同じようなものなのだろう。
「いろいろ教えてくださいね!」
こういうところ、片平クンもソツがない。
「こういう子と一緒に仕事してるんだもんね」
彼女は苦笑いしながらも、嬉しそうにこっちを見た。心の半分は遼ちゃんに向いている私は、おかしな反応だったのだろうか? 峰岸さんは不審な顔で私の顔を覗き込んだ。
「何かあった? 今朝は元気ないね」
「あっ…… 母親と出る前にちょっと」
「そっかぁ。いろいろあるよね。うちも老婆と一緒だからわかるよ。うちはそろそろ老々介護だけどね」
片平クンがぷっと吹き出した。二十四歳の彼には全くリアリティーのない話だろうが、峰岸さんには切実な問題。そして、私にもそのうち切迫してくるはずの問題だった。
「今日は個室で飲み放題ですから、思いっきり飲みましょうよ、ねっ!」
そんなことに気づくはずのない彼は無邪気だ。
「ったく、同盟なんか参加しなきゃ良かったかな」
峰岸さんが心にもないことを言って笑わせた。
「そんなこと言わないでくださいよ。私、峰岸さんとお話したかったんですから」
本心でなくもないが、ちょっと社交辞令だった。それはきっと見透かされているのだろう。
「あらま、嬉しい。でも、今日は京極くんの愚痴でも聞いてやって」
「……ええ」
「彼ね、とても誠実だと思う。あの年次にしては珍しい。泥もかぶれる。こんなことで飯田なんかに遅れを取らせたくないよ、ホント」
「ホントです。ボクもそう思います!」
「調子いい奴。でもあんたのいいところはそこだよね。その単純なところ、アハハハハ」
三人で笑いあった。でも、肝心の京極さんの姿はいつまで待っても現れなかった。
夕方、会のスタートは十九時半からだった。木曜日、正社員たちは遅くまで残っていることが通常だったから、私と宮下さんは、ふたりで駅ビルで時間を潰すことにした。
書店の前を通ると、偶然、彼の好きな作家さんがサイン会をやっている。私はつい列に並んでしまった。
「へぇ~、中澤さんって、この作家さんのファンなんですか?」
「ええ…… まぁ」
宮下さんに訊かれて、答えに窮した。私自身は一度もこの作家の本を読んだことはない。
「映画とかにもよくなってますよね。私もサイン貰っておこう。どの本がおススメですか?」
そう訊かれても困る。
「作家さんの前に並んでいる最新作でいいんじゃないですか?」
「そうですね。記念に買うだけだから」
彼女はそう言って笑った。遼ちゃんにもそれだけの意味しかないのかもしれないと思うと、急に並んでいるのが虚しくなった。でも、宮下さんまで並ばせて、今さら止めるわけにもいかない。
そのうち列が進み、私の前にテレビで時々見かける作家の顔が間近になった。
「ありがとうございます。お名前は?」
凍り付いた……
今の今まで、サインには宛名が必要なことを忘れていた。完全に頭の中が真っ白になって、何も言葉を言い出せず言い澱んでしまった。すると、その作家は一瞬だけ私の顔をみて、スラスラと筆を走らせた。
『あなたへ』
そう宛名が書かれていた。心臓が止まるかと思うほど、激しい鼓動がいつまでも続いた。
「ありがとうございました」
「いいえ。お幸せに」
私はバッグに本を仕舞い込むと、その作家さんの本が並ぶ棚のところへ行って、もう一度眺めた。右端から左端まで、平積みの本も全部買い占めたい気分だった。
「真っ赤ですよ、中澤さん!」
宮下さんに言われてハッとした。
「本当に凄いファンなんですね。ひと言も言えなくなるなんて、中澤さん、乙女みたい」
そう言ってからかわれた。
「そう、凄いファンなんです。もう一度ここの本、全部買い占めようかと思うくらい」
私は、これからある飲み会のことなど忘れて、早く遼ちゃんに会えればいいのにと、心の底からそう思った。