「あなた、目が腫れてるわよ?」
翌朝、母に目ざとく指摘される。
「うつ伏せで寝たからじゃないの。知らないわよ、そんなこと」
「まぁ…… 三十代も半ば過ぎて恥ずかしい」
一体家族というのは味方なんだろうか? それとも内なる敵なんだろうか。母の言葉は時々私の心を思い切り抉る。私は食事をする気もなくなり席を立った。冷たいシャワーで目を覚まそう。腫れた目で出社するのは嫌だ。
バスルームの姿見に全身を映してみる。自分のカラダに興味は湧かないが、男の人の歓心を惹くのはこのカラダのどこなんだろう? 半身を捻ってじっと観察してみた。
(わからないわ、男の人の気持ちは……)
それが解れば彼を繋ぎとめることができるかもしれないと思ったが、無理のようだ。
(それに、あの人は私から誘うのを嫌うし)
いつだったか、寝ている彼に手を回して拒絶されたことを思い出した。
(やっぱり私への興味が薄れてるのかも)
それ以外、思い当たることがなかった。彼とは週末こそ一緒だが、他の時間の彼を知らないことに今さらのように気づく。私たちにあるのは非日常の場所と時間だけだった。
(結局…… 何も知らないのと一緒だわ)
昨夜の動揺は収まった。ただ、その代わりに深い失望感に苛まされた。
「中澤さん! こっちです!」
タリーズに顔を出すと、京極さんと峰岸さんがもう揃っていた。
「おはようございます…… 昨夜はどうも」
「元気ないね。二日酔い?」
「ええ、ちょっと……」
「そんなに飲んだ?」
京極さんが意外そうな顔で私を見る。
「ええ…… 私にしては飲み過ぎです」
大嘘だ。全然飲み足りなかった。
「ごめんね、無理に付き合わせて」
どこまでも善人だ。善人エドさん…… そんなマンガなかったかしら。
隣の峰岸さんはニコリともしない。この人の気に障ること、何か言った? 心当たりがない。
「私ね、盂蘭盆会だっけ? あの人のはそういうのが好きだわ」
峰岸さんが私に語りかける。
「ウラボン? お盆のお話ですか? 誰の?」
京極さんが私と峰岸さんを交互にみて話題を探ろうとする。
(ひょっとして、昨日の作家さんこと?)
ピンと来たけど、読んでないから反応のしようがない。作り笑いで誤魔化すしかなかった。
「京極くんは読んでないみたいね。今度、中澤さんに本を借してもらえば」
峰岸さんはいい人だけど、やっぱり意地悪だ。でも、意地悪される理由がわからない。
(昨日から…… 遼ちゃんのメールからずっと歯車がズレてる。私の中のすべての歯車が全部)
「大丈夫? 気分悪そうだよ。二日酔い?」
(もう…… 面倒くさい……)
私の中で何かが音を立てて崩れた。もういい、そんな捨て鉢な気分が頭を擡げた。
「ええ。実は家に帰ってひとりで飲みました。二時くらいまで。不良なんです、私」
京極さんがびっくりした顔をして峰岸さんの顔を見る。
「えっ! 意外な告白だな…… かなりの衝撃かも」
「ですよね、アハハ、自分でも信じられないくらい。私、ダメな出来損ないなんです」
(もういいや、別に気まずくなれば派遣なんだし、ここ、辞めてもいいんだし)
「どうかした?……」
京極さんが心配そうに顔を覗き込む。
「私、先に上がるね」
峰岸さんが紙コップを持ってオフィスに向かった。京極さんとふたりきりになる。
いきなりふたりきりになって、話すことも見つからない。ふたりとも黙ったまま、時々静かにコーヒーを口に運んだ。
「メール、迷惑だった?」
しばらくして、真面目な顔をした彼がそう問いかけた。
「あっ…… すいません。返事もしなくて」
「ううん、いいんだ。ただね…… 」
次の言葉を言うべきかどうか、彼は躊躇しているように見えた。
「僕の言葉は何一つキミに届いていないようで残念だ」
遅い時間のメールだった。意外に思っただけだったし、特に重い内容でもなかったから、挨拶程度の意味しか感じなかったけど、彼にしてみれば勇気が必要だったのだろうか。
「…… ごめんなさい」
そうとしか言えなかった。彼の気持ちを全然知らないわけではない。だけど、そこまでのつもりがあるとも思っていなかった。
「いい機会だから言っておくよ。僕は中澤さんと付き合いたいと思ってる」
(…… なぜ? これは告白?)
「ハハハ、こんなところでついでに告白するマヌケもいないか?」
彼は自嘲気味に笑った。
「いいから。別に答えなんかいいから。ただね…… 」
とても彼の顔をまともに見られなかった。
(私はそんな女じゃない…… )
「少しずつ、ホントに少しずつ、このタリーズ同盟で中澤さんと近づければいいと思ってた。ずっとコーヒー飲むだけの友達のままで終わってもいい。僕はそんなに気の利いた奴じゃないし。でも……」
顔を上げられない……
(遼ちゃん…… 私、この人に縋ってもいいの?)
「たぶん、キミのことはずっと心に思い続けると思う。だからね…… 」
(もう…… 優しくしないで…… )
「必要な時に必要なだけ僕を利用してくれればいいよ。言いたいのはそれだけ」
…… 涙が一滴落ちた。プラスチックの蓋に落ちて、ポツッと軽い音が跳ねた。
朝の、しかも紙コップのコーヒーを持ったまま、聞かせてもらう話じゃない。この人が私を口説こうと思っているなら、もっと別の機会にすべきだったと思う。だけど、いや、だからこそ、この人の誠実な言葉はそのままストレートに受け止めたいと思った。余計な飾りなどない、本当の言葉として響いた。それが痛くもあった。
「…… ありがとうございます。
メール…… 今度は必ず返信します…… 」
私も精一杯の気持ちを伝えたかった。
京極さんを好きかどうかはわからない。でも、京極さんに嫌われたくない、彼がいいというのなら、私を支えて欲しいと本気で思った。
「正直に言うと、昨夜は結構凹んだ、アハハハハ」
「…… ごめんなさい」
「慣れてないんだ…… 結構脇汗がびちょびちょに流れた、アハハハハ」
(そうなんだ…… あれだけのメールでも…… )
私だって、遼ちゃんにメールする時、どれだけ躊躇することか。何度も何度も書き直して、それでも送れないこともある。
「…… 返事書きます」
結花の顔が一瞬浮かんだ。
(これでいいんだよね…… )
喜んでくれるだろうか…… いや、怒るだろうな。なんであんただけ!って怒るだろう。
(だけど、今の私には誰かがどうしても必要なの)
(遼ちゃん…… 遼ちゃんが悪いんだからね…… )