えっ! 嘘!……

「おつかれさまです」

 金曜日、十七時半。いつもの時間にオフィスを出る。これまで二年近く、ほとんど毎週のように通ってきた海辺の町に今日は行かない。それはつまり、明日も明後日も何もすることがないことを意味し、同時にそれは、暗く長く、とてもひとりではそこから這い出せない、闇のような時間が続くことを意味した。
 でも、家に帰ろう、そう思っている。結花を誘い出して気を紛らわすこともせず、真っ直ぐ家に帰ろうと思う。なぜなら、遼ちゃんからのメールを待っていられそうな気がしたから。そして待っていられるのは、きっと京極さんからメールで支えてもらえるだろうと思えたから。

『必要な時、必要なだけ僕を利用してくれればいい』

 そんなことできるわけない。でも、彼の言葉が支えになっていることは間違いない。今のこの心の落ち着きは、遼ちゃんを信じているというより、京極さんのおかげのような気がしている。
 ただ、京極さんを遼ちゃんのように愛しているわけではない。だから、いつかこれは愛じゃないと彼には伝えよう。もう少し…… 時間が欲しい。遼ちゃんをしっかり待てるのか、それとも諦めるのか、それを心の底から迷いなく決断できるまで、もう少しだけ時間が欲しい。そう思いながら、滅多に乗ることのない週末の下り電車に乗った。


「おや? 今日は行かなかったの?」

 朝、イライラさせられたまま出かけたので、母親には今日の予定を伝えていなかった。母親のペースに合わせるといろいろ詮索されて面倒だ。咄嗟に思いついた料理のことを口にした。
「お母さん、磯辺揚げが食べたい。作って」
「磯辺揚げ? また急にそういうこと言う。竹輪なんかないし」
「そうじゃなくて、お父さんがよく食べてた、山芋すりおろしたの」
「なおさらないよ、山芋なんて。あれは自然薯じゃなきゃ無理だし」
「買ってきてよ」
「…… まったくたまに週末いるかと思えば面倒な注文だね」
 そう言いながら、母は買い物に出かけた。

 父…… 私が高三の時にわずか三か月の闘病でいきなり死んでしまった父。亡くなるその日になっても、私には二度と会えないなんて実感が湧かないままだった。今でもどこかその辺りから、穏やかな笑顔で現れる気がしている。

(お父さん…… お父さんになら遼ちゃんのことをどこかで話せたと思う)

 十七歳の誕生日にくれた手紙は今でも引き出しの中にちゃんとある。
『…… きっとまもなく誰かを好きになり、パパのこともママのことも忘れる日がくるだろう。だけど、そんなこと、気にしちゃいけないよ。人を好きになるってことは素敵なことだ。パパはお前が生まれたときから、いつか誰かを好きになることを喜んであげようと思っていたからね……』
 父が伝えたかったことはその後に書いてあった「女の子は損だから注意して」というところだったのかもしれないけど、私はその前の文章を忘れないでいる。
(生まれたときから、誰を好きになっても許してくれる約束だものね……)
(遼ちゃん…… 遼ちゃんともっと早く会いたかったよ。パパに会わせたかったよ……)

 母親とふたりで囲む週末の食事はぎこちなかった。いつもなら、特急列車の車窓に映る彼とおしゃべりしている時間だ…… そんな時間と比較しながら口にする食事は、ほとんど味も感じない。
「どう? 磯辺揚げ、美味しい?」
「…… うん、まぁまぁ」
「ったく失礼な子供だねえ。人に作らせておいて」
 そう言いながらも、母はまんざらでもない様子だった。
「お父さんはこれのどこが好きだったのかな? 特に味もないよね」
「蓼食う虫も好き好きってね。あんたも蓼食う虫だろうし」
 母は嫌味な含み笑いを残して、最後の磯辺揚げを口に運んだ。これ以上母と同じテーブルにいるとロクでもない話になりそうだったので、自室に籠った。

 携帯を眺める。誰からのメールもない。
(週末に誰からの誘いもなし、慰めのメールもなし…… つくづく可哀そうだわ、わたし)
 我ながら付き合いの狭さを笑える。遼ちゃん、結花、このふたりが私のすべてだ。
(あっ、ひょっとして京極さん? …… ないない)
 自らの問いを自らが笑って否定した。京極さんとはなにもない。あってはいけない。頑なにそう思おうとしている。私なんかが、あんないい人と、なんてあり得ない。
 誰から何の連絡もない携帯をずっと見ている。

『起きてる?』
 二十三時過ぎだった。遼ちゃんからのメールが届いた。
『うん』
 それだけしか、言葉にならない。しばらく間が空いた。

 チリン……

(えっ! 嘘!……)
 京極さんからのメールだった。
『中澤さん、こんばんは。今、大丈夫? メールしていい?』
 今朝の京極さんが一瞬で蘇った。
『こんばんは。お疲れ様です』
 指先が反応していた。
『よかったよ、本当に返信があって。今日返信がなかったら明日は丸の内線に飛び込むところだった(笑)』
『京極さんが冗談言うなんて、意外です(笑)』
『え~~っ? どんだけ堅物に思われてるんだろ(笑)』
『堅物とか思ってないです。真面目だから』
『真面目なのはつまんないよね、やっぱり』

 チリン……

 今度は遼ちゃんからだ。でも京極さんに、そんなことないです、とだけ送っておきたかった。
『そんなことないですよ。真面目な人は好きです』
 そう送信して、遼ちゃんのメールを開く。
『もっと早くにメールしようと思ってたんだけど…… ゴメン』
 なんと返事しようか言葉が見当たらない。

 チリン……

 京極さんだ。 先にそっちを見る。
『その言葉、本心として受け止めていいのかな?』
 彼はやっぱり真面目だ。生真面目だ。そう断られると、本心かどうか自分で自分の心を確かめなきゃいけなくなる。
『真面目に越したことはないです』
 言葉は難しい。真面目過ぎても窮屈だなと思ったけど、そういう訳にもいかない。かといって、京極さんのことは嫌いじゃない。
『よかった…… ホッ!』
『(笑)京極さんってカワイイですね。会社の時とイメージ違う(笑)』
『そうかな。自分じゃわかんないや。今度どういうところが違うのか教えてください』
 思わず顔が綻んだ。こんな三十四歳の男性もいるんだと思った。
(遼ちゃんとは全然違う……)
 無意識に比べていた。
(そうだ、遼ちゃん……)
 返事を忘れていた。不自然な間が空いた。だけど、まだ言葉が見つからない。

 ふたりからのメールがともに途絶えた…… 急に罪悪感が募る。私から返事をしなければ、ふたりともこのままメールを止めるのだろうか? そんなことを考えた。




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