鴨川ヤロウにコーヒーヤロウ

『怒ってるみたいだね。仕方ない、ボクが約束を破ったわけだし…… じゃあ、おやすみ』
 私の返信が送れたためか、彼からは、これで会話を打ち切る、としか読み取れないメールが届いた。彼らしいと言えばいかにも彼らしい文面。私のことを好きかどうかなんて読み取れない、あっさりした文面だった。

『怒ってると思ったら機嫌取って!』

 思わずそう返信していた。
(こんな返信をする私は、きっと彼の中には存在しない)
 返信した後で後悔したものの、今回ばかりは彼の言うままにできない。何も返信しなければそれっきりになる。彼にはどこか冷たく突き放すようなところもある。
(約束をキャンセルしたのは遼ちゃんなのに……)
 彼への恨みを抱えながら、指先は京極さんへの返信文を書き込んでいる。
『今度のタリーズ同盟の時にでもお伝えしますね』
 無意識だった。
『じゃあ、片平に無理にでもセッティングするよう言っておこう(笑)』
 すぐに返信がある。どこまでも京極さんは明るく善人だ。知らず知らず顔が綻んでしまう。
『片平さんも幹事大変ですね(笑)』
 そう返信した直後だった。

『ごめん、機嫌を取るべきだと思うけど、今はそんな気分じゃないんだ。また今度。おやすみ』
 彼からのメールは一方的に終わりを告げた。

(こんな人だったの?…… なんて一方的な)

 寂しさより悔しさを感じていた。
 彼に本当の意味での悔しさなんて感じたことはない。えっ? どうして? と戸惑うことはあってもずっと恨むなんてことは一度もない。でも、今日は一瞬、そんな感情を抱いた。
 勝手ね! 
 そう書き送ろうと指が動いた。だけど…… 踏み止まった。彼にそんなメールを送れば、その瞬間に私たちは終わる。間違いなく終わる。そんな気がした。

『片平はあれで喜んでるから大丈夫。じゃあ、決まったらまた連絡します。遅くまでありがとう』
 京極さんのメールも終わる。今夜はもうちょっと話していたいけど、引き留める理由が見当たらない。
『わかりました。連絡お待ちしてます。おやすみなさい』
『おやすみ。また明日』

 また明日…… 

 また今度、またいつか、それらとは違う距離の近さを感じる。京極さんとはまた明日会える。遼ちゃんとは週に一度の機会を逃せばそこから五日間会えない。そして今、たった一度の週末を過ごせないばかりに、この先、二度と会えない絶望的な気持ちになる。そこに耐えられない重みのあることを思い知らされる。

(遼ちゃん…… 私はそんなに強くないよ)

 彼は私のことをどう思っているんだろう? 彼の気持ちを確かめぬまま、不安な日々をただ彼からの連絡を待って過ごすのはもう限界のように感じた。


 土曜日がやってきた。秋晴れの高い空は嫌でも人を外に誘い出す。私は久しぶりに休日の池袋に出かけた。

 パルコで藤原竜也のチケットを探す。当たり前だけど当日に期待するような席が確保できるはずもない。諦める。ふと、オペラのチケットに目が向く。
(アンドレア・シェニエ?…… なんだろう?)
 聞いたこともないし興味が続かない。
(これじゃ共通の趣味になりようがないね)
 ただの愚痴。

 つまらないなぁと思いながらカフェで携帯を眺めていると、結花からメールが届いた。
『どこ?』
 相変わらず無駄なことは一切書いてこない。
『パルコ』
『ひとり?』
『そうだよ、悪かったね』
『コーヒーヤロウでも誘い出せばよかっただろうに』
 鴨川ヤロウにコーヒーヤロウ…… あながち間違いではないが、今日はひどく私の感情を逆撫でする。
『そんなんじゃないから』
『ふ~ん…… 暇ならさ、本庄まで来ない? 泊りがけで』
『遠すぎ、やめとく』
『まぁちょっと遠いかな。じゃあ、来週おいでよ』
『来週は鴨川!』
 今週はたまたまだ! 結花にからかわれるなんてまっぴらだ!
『アハハ、もちろんキャンセルされた場合だよ』
 冗談に聞こえない。あれだけ電話でバカにされたのだ。気持ちはまだ結花を許していない。
『結花…… 私は怒ってるからね、まだ』
『何を?』
『何をって、この間の電話!』
『なんで? アドバイスしてあげただけじゃん』
『ひどい言い方してた』
『事実じゃん。だからそっちはやめて、まともな方と付き合いな、っていってるだけじゃん。おばさんだってそっちを喜ぶよ、きっと』
『関係ないでしょ! うちの母親も結花も!』
『気にしてるから怒るんだよ』
『怒ってないし』
 無視しようと思った。彼女から、やいのやいの言われる筋合いでもない。友人として良かれと思っていたとしても、大きなお世話だ。

 しばらくすると、少し長めのメールが届いた。

『あんたの好きにすればいい。だけど、私に愚痴をいうくらいなら、覚悟もないなら、三十四歳の不倫はあり得ない。あんたが結婚していて一瞬の迷いで誰かとそうなるならいい。帰る場所が確保されているならいい。だけど、あんたは何もない。私しかいない。
 だから、コーヒーヤロウを先に確保して、それから思う存分鴨川ヤロウと好きにすればいいじゃん。それで鴨川ヤロウが嫉妬するなら言ってやりな、そんな資格、どこのどなたがお持ちですか? って。
 佳矢はそんな二股なんかできないとか思ってるんだろうけど、こんなの二股でもなんでもないよ。みんな打算で動くもの。もうじき三十五歳の女なら当たり前だよ。
 それにね、どーせあんたのことだから、コーヒーヤロウと仲良くなってもどっちも相手するなんて絶対できないから大丈夫。きっとどっちかを選ぶよ。
 だったら今は両方と付き合って、自分にはどっちが本当に合っているのか、その時が来たら選べば良いでしょ? このアドバイスはおかしい?
 気持ちとしちゃ、あんたの贅沢な悩みなんか知らん顔してたいんだけどさ、腐れ縁のよしみだよ』

 そうかもしれない…… 確かにそういう立ち回りもあり得る。赤の他人がそんなことしてたらイヤらしい女と思うかもしれないけど、例えばもし結花がそんなことをしても、きっと私は応援するだろう。
 世の中の倫理なんて、建前と身近に起こる現実とでクルクル立場はかわるものだ。結花からのメールは建前を脱ぎ捨てたストレートな本心だったから、私も素直に受け止められた。

『ありがとう結花。心配してくれて』
『ホントだよ、あんたのこと見てるとイライラするよ。バカ正直でさ。呆れるよ、まったく』
『…… アリガト』
『話、聞こうか?』
『うん。私も結花の話、聞いてあげる』
『ほぉ~。じゃあ東松山までなら来る?』
『うん』

 週の始まりに結花と居酒屋、週の終わりも結花と居酒屋。
 私たちはどこの誰よりサラリーマンのおじさんだ。




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