誰か助けて……

 誰からもなんの連絡もない…… 
 ひょっとすると、急に会社を休んだ私を気遣って京極さんはメールをくれるんじゃないか、どこかで聞きつけた遼ちゃんは電話してくれるんじゃないか…… そんな微かな期待と希望は、物の見事に打ち砕かれた。

(当たり前だよね、ズル休みだもん…… )
 そう思って自分を慰めた。

 孤独……

 私は孤独だ。この不都合な真実にずっと目を瞑ってきた。だけど、疑いようもなく私は孤独だ。もし、本当の病気や怪我だったとしても、私のことを第一に考えてくれる人はこの世にひとりもいない。その事実を認めることは辛さを通り越して絶望的な「無」だった。

 私は存在していないに等しい……

 ベッドに横になり目を瞑ると、そのまま静かに深い闇の底に沈む孤独な最期を思い浮かべた。

(誰か助けて…… )

 声なき声を上げると、瞑ったままの瞼から涙が零れた。
 そのまま、知らぬ間に眠っていた……

 ……

「起きなさい‼ 出かけるよ!」
 乱暴にカーテンを開ける音で目が覚めた。陽光を背に、珍しく母親がパンツ姿で窓際に立っている。
「ほら、起きて! ドライブしよう。寝てても仕方がない!」
 私はいきなりの侵入者に戸惑った。深い闇の底から無理やり引き摺り出され、自分の身に何が起きているのか理解できなかった。
「おうどん食べに行こう! 今から行けばちょうどいい」
「…… 今何時?」
 おうどんよりまだ眠っていたい。
「十時半」
「…… お昼には早いよ」
「水沢うどん行こう! お天気いいから」
「…… ひとりで行きなよ。体調不良で会社休んでるんだよ、私は」
「学生じゃあるまいし、ズル休みだからって家に閉じこもる必要なんかないよ」

 耳を疑った。子供の頃から決まり事、特に学校の規則には殊の外厳しかった元教師が、こんなことを言うとは考えもしなかった。
「遠いよ。おうどんのためだけにそんなとこまで行かないよ」
「温泉でもいいよ、あんたが会社を明日も休むっていうなら」
「いいよ…… お母さんと一緒に行ったって面白くもない」
 母はベッドに座って私の顔を覗き込んだ。

 幼い頃…… 学校に行きたくないと駄々をこねると、決まって父がこうしてベッドに座り、いつまでもずっと待ってくれてたことを思い出した。
「とにかく行こう。お腹すいたでしょ?」
「…… 」
 母と父が重なって、なんとなくそれ以上断る気がしなくなった。


 ほぼペーパードライバーの私より運転は母の方が確かだ。私は当然のように助手席に座り、母が運転席についた。
「道、わかる?」
「わかるでしょ。ナビもあるんだし」
 そういうと手慣れた様子でナビをセットし、母は車を最寄りのインターチェンジに向けて走らせた。

 今日も抜けるような青空が広がっている。

 この高い空を見ると小学校の運動会を思い出す。運動が苦手な私でも、万国旗が校庭に交差した光景と、沢山の家族が晴れやかに集う様子が忘れられない。変わらぬ笑顔の父と、その日ばかりはなぜか機嫌のいい母の笑顔を思い出していた。

「あなたとドライブなんて久しぶりね」
 そうだ。社会人になって、アイツと付き合い始めた頃から、母親と出かけることなんてなくなった。
「鴨川って、今は車ですぐなんだよ。知ってた?」
「そうなんだ。車じゃ行かないから知らない」
「アクアラインわかるよね? 海ほたる。知ってるでしょ?」
「ああ、あれね。知ってるよ」
「あそこ通って行くんだよ。君津で高速降りてからちょっと大変だけど」
「ふ~ん……」
「あなたが毎週空気の入れ替えしてくれてるから、いつ行っても快適に使えるよ。ありがとうね」
「……」
 母は知っているのだろうか? どこまで知っているのだろう? 知っていてなぜ黙っていたのだろう?

 だが、それももういいや、って気になった。何がどうバレても、もういいや、あそこにはもう二度と行かないかもしれないし、母親が何と言おうが、過ぎ去った日のことが取り返せるわけでもない。それに、私はもうすぐ三十五歳だ。十一月になれば三十五歳だ。今さら母親にいちいち断って行動する年でもない。

 しばらく走ると、ナビがPAへ入るよう誘導する。母は迷うことなくその誘導に従う。
「別にトイレ行かなくてもいいけど」
「バカね、ここから出られるのよ、今は」
「ふ~ん」
「若い子のくせに、意外と何も知らないね、あなた」
 今どきの六十三歳は何でもできるらしい。確かに、髪の毛こそ白いが、よく見ると母親はそれなりにちゃんとしている。私はこの母親のことを、捨て猫を拾ってくるしか能のない年寄りと勝手に決め込んでいただけなのかもしれない。

 高速道を降りても、母は迷ったり躊躇することなく車を走らせ、十二時を少し回る頃には見覚えのある店先に到着した。
「ここ、来た記憶がある」
「お父さんと来たでしょ、三人で。あなたが中学生だったかなぁ」
「なんとなく憶えてる。この道のカーブした感じとか」
「二十年も昔だけど、あまり変わらないね、この辺りは」
「その時かなぁ、帰る時に凄い雷だったの」
「あったねぇ、そういうこと。稲妻が横に走ってたよね。うん、あれはこの辺りからインターチェンジに向かうときだ」
「懐かしい……」

 父が元気な頃、私たちは仲のいい親子だった。父を挟んで私と母。ふたりで父の両腕を片方ずつ組んで歩いた。
 母も父と過ごした日々を思い出しているのか、店に入るとふたりとも無言でうどんを啜った。
 ふと…… あの海岸沿いを思い出した。いつも遼ちゃんの腕をとって歩く遊歩道のことを。私は、まだもう少し縋りたかった父の代わりに、遼ちゃんの左腕を掴んでいたような気もした。


「湖にでも寄ってみる?」
 母は私の了解を取るまでもなく、車を榛名湖畔に向けて走らせた。そこも昔懐かしい光景だったが、建物は二十年の歳月を実感させる程度に古びた感じがした。

「私はあなたがいたから寂しくなかったよ」
 湖の彼方を眺めながら母が言う。
「もしあなたが、自分のしたいことを私が邪魔してると感じてるなら、それは勘違いだから。
 これだけは言っておくよ。あなたは親孝行な娘だった……
 もう十分。私のことなんか忘れなさい」

 何と言えばいいかわからなかった。幼い頃から、私は母が苦手だったから。
「あなたはパパっ子だったからね…… 
 生まれた時からパパがあなたを離さないんだもん。パパっ子にもなるわよ。
 私はいつも叱る役。父親と母親が逆なんだもん、損したわ」
 母はそう言って笑った。

 湖面を秋の気配の風が通り過ぎる。

 苦手な母親に、何をどう説明したらいいかわからない。
 ただ、母親が自分のために心を痛めていることはわかる。
 何かを言わなきゃいけない、そんな気がした。

「お母さん……」
「はい」

「園井遼平さん」
「うん…… 」
「四十二歳」
「うん…… 」

「既婚者」
「…… うん」

「以上おわり」
「…… わかりました」

 止めどなく涙が溢れた。




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