遼平さんとは終わりにします

 夕方、家に戻るまで一度だけ携帯が振動した。おそらく京極さんからのメールだと思ったが、今はどう返信すればいいかわからず、読まないままにしておいた。

 母に遼平さんの存在を知らせた時、何も言わないでくれたことでかえって彼とのことは自分で決着をつけるべきだと吹っ切れた。今夜こそ、彼にはっきり訊こう。曖昧なままの関係はやめよう。そう強く覚悟を固めた。京極さんへの返信はそれからだ。

 夜、二十三時を過ぎた。いつもなら私からメールする時間……
 でも、あと三十分だけ待ってみよう。
(ひょっとしたら、彼は今、週末の予定を書き込んでいるところかもしれない。送信する前に誰かの足音が聞こえたから、一瞬、躊躇しただけかもしれない。もう届く頃かもしれない……)

 だが、結局メールは届かない。
 三十分余計に待った分だけ、さっきまでの強い決心は揺らぎ、彼に縋ろうとする自分が頭をもたげた。

(このままじゃダメ…… 先週のような週末はもうイヤ!)
 意を決した。

『遼ちゃん、こんばんは。起きてますか?』
 送信。
 ……
『ごめん、佳矢。連絡もせずに』
 思ったより速い返信だった。
『ううん。何かあるの? あるなら教えて?』
 送信。
 ……
 ……
『実は、義父の具合が良くない』

 妻でも、父でもなく、義父……?
 この文字を目にした瞬間、私は私と彼の関係の遠さに愕然とした。私は、彼の義理の関係よりもっと遠く埒外にある。
『そうだったの』
 お見舞いというのも白々しい気がして書き込めなかった。
 送信。
 ……
 ……
 ……
『ごめん。またこっちから連絡していいか』
 しばらく、この僅か一行分の文字を眺め続けた。
 これが、彼から最後のメッセージ
 そう思うと、あまりに情けない文字が並んでいるような気がする。この数文字は、これまで彼と過ごした時間、彼に寄せた想いに何ひとつ応えていないことが虚しかった。
『うん、いいよ』
 送信。
 ……
 ……
 ……
 ……
 十分待った。彼からの折り返しはなく、もう携帯を見る気もしなくなった。

 終わった……

 呆気なく終わった。
 だが、何故か不思議に何も思わなかった。

(ふん、スッキリした、清々した)

(もう、涙なんか出ないわ、終わり、終わり、もう終わり)

(終わり……)

 そう思ってみたが、不意に明日からの寄る辺ない日々が浮かぶ。
 明日からはもうずっとひとり……
 海辺のあの部屋に行くこともない
 車窓に映る彼を見ることもない
 メールも来ない
 もらったサイン入りの本も、もう渡せない
 腕に縋れない
 あの道を歩けない
 抱きつけない……
 もう…… 何もない

 そう思った瞬間、息をつかせぬ感情が一気に噴き出し、身体をよじらなければいられない苦痛に襲われた。
(終わったんだから…… 終わったんだから……)
 何度言い聞かせても、頭の中の理解を胸のうちが拒絶する。
(彼のことを恨んで恨んで、呪い殺してやる!)
 そう思い込むしか、絶望の淵にまで振れる気持ちをもとに揺り戻せない。

 長い長い夜が、このままいつまでも続くような気がした。
(恨んで…… 恨んで……)
 そのうち、疲れ果てて眠りに落ちた。

 ……


「おはよう」
 いつもの時間に起きてテーブルにつく。いつもの朝食が既に並んでいる。コーヒーをひと口飲む…… 少し苦い。

「豆変えた?」
「ううん、いつものだよ」
「そう。なんとなく苦い」
「体調がホントに悪くなったとか?」
 目も腫れてるだろう。だが、母は何も言わない。
「全然平気」
「そう。なら良かった」
 コーヒーと薄いトーストを半分。それだけをようやく口に運ぶ。
「ごちそうさま」
 席を立つ。

「卵でも茹でる?」
 卵茹でる?…… 子供の頃、何度も何度も聞いてきた母の言葉。
「アハハ、私が元気がないと、ママはすぐ、卵茹でる? って訊くよね」
 思わずママと呼んでいた。
「手っ取り早いからね、アハ」
 母と目が合った。朝食の時に母と目を合わせたのは何年ぶりだろう。
 それほど母との距離は知らぬ間に開いていた。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 出かける前にメールを見る。京極さんのメールは予想した通りの内容。それに簡単に返信した。

 さあ、出かけよう。思ったより大丈夫な自分に気づく。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「お母さん……」
「なに?」

「遼平さんとは終わりにします」

「…… はい。気をつけて行っておいで」
「うん、行ってきます」


 玄関を出るともう肌寒い季節になっている。
 あれだけ暑かった夏の日のことも、僅か数ヶ月で忘れてしまうのだ。人間の感覚など、どれほどのことでもない。
 いつもの坂道も転ばぬ程度には走ってみようか。


 タリーズコーヒーに立ち寄った。メンバーの姿はない。チャイミルクを注文した。
 やがて、京極さんが山際さんと並んで入ってきた。彼女が一緒? ちょっと邪魔。

「やあ、中澤さん。心配したよ」
 彼の言葉はそのまま受け止めたい。心がそうしろと言っている。
「珍しく急なお休みだったので、京極さんと片平さんが凄く心配されてましたよ。私が休んでもあんなふうには心配してもらえないだろうと思うと、妬けちゃいました」
 ぶりっ子らしいアピールだなぁと半ば感心。
「すいません。ずっと身体がダルくて。ご迷惑かけました」
「今朝はコーヒーじゃないね。身体が受け付けない?」
「あっ、コーヒーが苦そうで、つい甘いの頼んじゃいました」
「それ何?」
「チャイミルクですけど」
「ふ〜ん……」

 デジャヴ…… 
 遼ちゃんともこんなシーンがあった。私がカフェでミルクティーを飲んでいると、あとから入ってきた遼ちゃんが、「それ何?」「ふ〜ん……」と言って、勝手にひとくち飲んだんだった……
 あの時は一瞬、なんて人! って驚いたけど、イヤな気持ちはしなかった。むしろ……

 京極さんはそんなこと絶対にしそうにない。でも、それが普通だ。
 遼ちゃんは平気でそんなことしてくれて…… そういうところも好きだった。
 バカみたい、もう別れたのに。

「顔色、決して良くないよ」
 ぼんやりした顔を勘違いした京極さん。いつも優しい。
「そうですよ、仕事はなんとかなりますから」
 正社員の彼女に言われると、なぜか反発したくなる。
「いいえ、今日は昨日の分も残業して取り戻します」
「何言ってるんですか‼ 今日は定時にまっすぐ帰ること!」
 京極さんに真面目な顔で言われると、俯くしかなかった。

 バカみたい、私……




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