罪深い女だね、あんたは

 何もない十月があっという間に過ぎ去り、十一月も半ば終わってしまった。まもなく三十五歳の忌まわしい記念日がやってくる。

 去年、彼から貰ったブレスレットを引き出しの奥から取り出して眺めてみる。花束以外にくれたことのない彼が、これをどんな顔をして選んだのだろう。テレ屋の彼のことだ。さっと選び、買い終わると足早にショップを立ち去ったのだろうか。そんな彼の後ろ姿が浮かんで消えた。

『指輪もネックレスも、ちょっとね。これなら、常に目線の届くところにあるだろ?』

 彼はその時、ブレスレットを選んだ理由をこう話した。指輪もネックレスも、プレゼントとしては直球すぎて気が引けたということだろう。
 だけど、私はこれを一度も身に着けていない。これは大切な記念品で、誰にも知られぬまま、そっとしまい込んでいたかったのだ。時々取り出して眺めるだけ…… 会えない時に。
 だけどもう、二度と身に着けることもないだろう。

 そんな過去を思い出しているところに結花からのメールが届く。
『ひま〜〜〜、な〜んもすることな〜~し』
 彼女は結局大宮のちょっと爽やかな青年とはビジネス上の関係に止まり、ウィークリーマンションも契約切れ直前の日曜日に引き払い、今はまた中板橋の実家に戻っている。十一歳年下の結城くんとはメールのやり取りがその後も続いているようだが、本人によると前進でも後退でもないという。
『池袋にでも行く?』
『それも面倒だな』
『腐るよ、このままじゃ。お互いなんとかしなきゃ』
『京さんとはどうなってる?』
『メールはあるよ。毎晩』
『うわぁ〜、未だにそれだけ? ヤツは童貞か? そんな手間のかかるヤツも面倒くさいな』
『真面目なんだよ、きっと。私がちゃんと返事しないから』
『誘われてんの?』
『うん。映画行きませんかとか、ボートの試合見に行きませんかとか』
『ボート? ギャンブラー?』
『アハハハ、そっちじゃないよ。オリンピックとかの』
『へぇ〜、なんか地味だね』
『やってたんだって。学生時代に』
『ふ〜ん。おぼっちゃまか』
『さぁ、知らない』
『それで、行ったの?』
『ううん…… 行かない』
『バカだね佳矢は』
『ほんとバカだね』
『ど〜せ、その後遼さんからは連絡ないんだろ?』
『ないよ』
『京さんでいいじゃん。いくら真面目な堅物でも、断り続けられたら誘えなくなると思うよ』
『そうだよね』
『なんて言って断ってるんだよ?』
『ごめんなさいって言ってる』
『それで?』
『そうですか、残念ですって言われて終わり』
『あんたも変だけど、京さんも変だね。佳矢が誰かと付き合ってるって知ってるの?』
『多分……』
『えっ⁉ それで待ってるわけ? 待たせてるわけ?』
『そんなつもりはないけど』
『……罪深い女だね、あんたは。てか、遼のヤロウがハッキリしないのが一番悪いな! 私が言ってやろうか?』
『うん。そうしてもらおうかな(笑)』
『京さんの気持ちがあるうちになんとかしな! わかった?』
『もうすぐ三十五だもんね』
『あちゃ〜〜、そうだよ、佳矢が三十五になると私もカウントダウンだよなぁ〜 ヤバイよ』
『三十五歳になったらお見合いしようかな』
『とうとう落ちるところまで落ちたか……』
『そうなの?』
『そうだよ! あんたの、なんとなく嫌い、なんて理由は通用しないからね! この人とはエッチできない、なんてのも、絶対許されないんだから!』
『…… 生理的に無理な人は無理』
『我慢なんだよ、そんなものは! それが三十五歳の商品価値ってもんなの!』
『夢も希望もなくなった……』
『あーぁ、つまんない! アイツでも誘って飲みに行こう。このままじゃホントに腐っちゃう! 佳矢も行く?』
『遠慮しとく』
『じゃあな、また連絡するわ』
 そう言うとメールは途絶えた。少なくとも彼女は私なんかよりずっとエネルギッシュだ。幸せは自分の手で掴むに違いない。

 結花の言うとおり、私は京極さんの気持ちを利用しているとんでもない女だ。彼とのメールがなければ、あの日からの週末は、とても乗り切れなかったはずだ。
 だから感謝してる。京極さんには心から感謝してる……
 彼からは毎日二十二時過ぎにメールが来る。最近は休みの日も必ず届く。
 内容も、最初の頃はこちらの様子を伺うものが多かったが、今では彼の日常に起こった些細なことが送られてくる。私はそれをただ読んでいる。なんて返信しようか、なんてこと、いつの間にか考えなくなり、今はただ思いついたままを返信している。


 夕方、いつもの時間より早く携帯が振動した。結花でないとすると、この時間に来るのはつまらないメルマガだろう。そのまま無視する。
 ここのところ、休みの日になると母と買い物に出かけ、夕飯の準備を一緒にしている。何もできない私に呆れながら、母はなぜか楽しそうに料理を教えてくれている。

「料理はカンよ、カン! 火加減なんか大体見てればこんなもんかなぁとかわかるでしょ?」
「味付けは?」
「そんなもの、一度試して、食べて不味けりゃ次の時に足したり引いたりすりゃいいのよ」
 私は本当に母を誤解していたかもしれない。何事もルールどおり、枠からはみ出すことを嫌う人、そんな印象を抱いていたけど、どうやらそれは私が作り上げた母親の虚像のようだ。
「毎日の献立なんて、そうそう気合い入れて作れる訳じゃないから。あ〜、食べた食べた、まぁまぁ美味しかった、くらいでいいのよ。不味い、じゃ困るって程度ね」
「お父さんはよくそれで我慢してくれたね」
「バカね、結婚するまでに練習したのよ。失敗作を我慢させられたのは、三郷のおじいちゃんとおばあちゃん!」
「だからあんなに痩せてたの?」
「ばか! あれは体質。あなたもその体質を受け継いでラッキーでしょ?」
「それは明らかに嫌味だよ……」
 そう言ってふたりで笑った。
(いいんだ、遼ちゃんはぷにょぷにょが好きだし)
 そう思ってハッとする。いつまで彼の幻影に迷わされるのだろう……

 二十二時前になると、携帯を気にしてしまう。そろそろ京極さんからメールが届く時間だ。この時間になると、知らず知らずメールを受け取る準備をしている。
 携帯をみる。
 一通の未読メールあり? ん? さっきのメルマガ?……

 差出人「高島優菜」

 名前を見た瞬間、身体の中心がキュっと縮まった。




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