中澤さん! 電話ちゃんと取って!

 今朝は駅ビルのドトールに寄った。土日、京極さんからのメールを無視して合わせる顔がなかった。京極さんには申し訳ないけど、今は何も考えられない。遼ちゃんのこと以外、何も考えたくない。出社したのは、彼のことを聞いて寝込んだ、なんて噂でも立てられたら彼はどんなに迷惑だろうと考えたからだ。

 駒井クンはお見舞いに行ったのかしら。日曜日に行ってるはずだから、何か連絡があってもいいはず。なのに連絡がない。私は正社員じゃないから、連絡しなくてもいいと思ってるのだろうか? 高島さんならそう思ってるかも。でも、駒井クンまでそうだとしたらガッカリ。

(どうなってるの? なぜ、誰も何も教えてくれないの?)
 こんなところであれこれ考えたところで、何ひとつ前進しないのに、私は何をやってるんだろう。

 上の空のまま、始業開始直前にオフィスに着いた。
「おはようございます」
 形ばかりの挨拶だったかもしれない。片平クンが怪訝そうな顔でこっちを見ている。だけど、相手にしていられない。なるだけ人と目が合わないよう、下を向いて仕事のフリを始めた。

 目の前の書類が記号だらけに見える。契約申込書だから、そこには血の通った人々の肉筆のサインもあるのに、ひとつひとつに違いがあるように感じられない。ただ目の前を通り過ぎる文字の羅列でしかない。
 朝からそれを右から左に流している。あるべき場所にサインがあるか、丸やバツが付してあるか、それだけをチェックする仕事。別に誰だってできる。
(遼ちゃん…… こんなことしてられない。遼ちゃん……)

 ……

「中澤さん! 電話ちゃんと取って!」
 急に峰岸さんから注意されて、ハッとする。そう言えば、何度か電話が鳴ってた気もする……
「すいません……」
 条件反射的に謝った。でも、何か悪いことをしたという自覚もない。 


 目の前の単純作業を流していると、いつの間にか午前中が終わった。お昼休み、いつものように宮下さんに誘われて、下のコンビニに向かう。

「中澤さん、体調悪そうだわ。大丈夫?」
「いえ…… 大丈夫です、何でもありません」
「そう? それならいいんだけど……
 ゴメンナサイね、私も電話取らなきゃと思うんだけど、急に用件を話し出す代理店さんがいるから怖くて」
 この業界に慣れてる私にすれば何でもないこと。同じ会社でも営業現場の経験がない宮下さんにすれば、慣れないのも当たり前。そんなこと、気にもしてないのに、急に謝られて、どう応えていいかわからない。

「私の仕事ですから」
「峰岸さんもいきなり大声出さなくてもねえ」
 同情されている。そんなに私の様子は変なの?

「気になることがあるんだったら話してね。人に話すだけでも気分が変わるものよ」
 宮下さんは信頼できそうな人。育ちもよく、なんの苦労もなく人生を歩んで来た人なんだろう。きっと相手の言葉をそのまま素直に受け止められる人。彼女の頭の中には「悪意」という言葉はないに違いない。だからこそ、私は彼女にありのままを話す気になれない。

「ありがとうございます。でも、なんでもありませんから」
「そう。それならいいです。でも、折角だから、午後は私も電話受けを頑張ってみようかしら」
「……」
「難しい? 」
「いえ、そんなことも……」
 宮下さんはなかなか話題を変えてくれそうになかった。

 コンビニのお弁当コーナーの前で、いつまでも買うものを決められないでいると、ずっと彼女も傍にいたままだ。
「…… 食欲ないし、今日はコーヒーだけにしておきます。すいません」
 そう言って私は先にコンビニを出る。その足でタリーズコーヒーに向かう。長い列がすでにできていて、テイクアウトでなければ座る場所もなさそうだ。しばらく並んでいたけど、そのうちそれも嫌になって、ビルの外に出た。

 造幣局沿いの通りは人通りが少ない。
 以前、彼が一度だけこの場所に車で迎えに来てくれたことがあった。その時は、この壁沿いをドキドキしながら足早に歩いた。オフィスからこんな近い場所で落ち合って大丈夫なの? 誰かに見られたら大変よ、そう話しかけると、別に関係ないよと応えてくれた彼の横顔を思い浮かべる。
 その裏路地をただ歩いている。たったひとつの思い出以外、なんの記憶とも結びついていないこの通りを歩いていると、オフィスでの現実、遼ちゃんの現実、それらがすべて架空の物語のようにも思えてくる。

(遼ちゃん…… 私はここだよ……)
 もうすっかり寒くなった十一月の風に当たるとその冷たさがかえって心地よくなってくる。全ての現実から逃避して彼のもとにずっといられるような気がした。


「中澤さん、ちょっと」

 お昼休みギリギリにオフィスに戻ると、峰岸さんに呼び止められた。隣の会議室に入るよう促される。
「どうしちゃったの? あなた、今日は全然おかしいよ」
「…… すいません」
 それしか言葉がない。何も話すことなどない。しばらくすると峰岸さんが静かに話し始めた。
「ふと思ったの。私たちはあなたに頼りすぎてたかもって。本当は任せちゃいけない仕事を、あなたが経験者というだけで当然のように任せてしまってた。負担よね、それって」
 同じ業界にずっといたからってこと? いまさら?
「そんなこと、考えたこともないです」
 それは事実だ。そんなことじゃない。
「そう。じゃあ安心した。そのことの不満じゃないとすると、何か原因が他にあるってことね?」
 詰められている気がする。
「仕事はちゃんとします。ただ…… 電話は今日は取れない気がします。ごめんなさい」
「うん、わかった。いつもあなたが真っ先に電話を取ってくれるから、鳴り続けるとついあなたの方を見ちゃうの。ごめんなさい」
 彼女にも謝られた…… 私はなぜこうも他人に負担を強いながら生きているのだろう。そう思うと涙が流れてきた。その涙を見て、彼女はひとり語りのように話し出した。

「いろんなことがあるよ。
 私には人に偉そうに言える経験なんてないから、せいぜい仕事のことだけでも人に後れを取るまいと思ってきたけど、今になればそんなこと、どうでもよかったかなと思ってるよ」
「…… 」
 責められないことの方が辛いこともある。
「さっきはちょっと大声出してごめんなさい。京極くんからもちゃんと謝れって叱られたのよ、アハハハ。彼ってさ、あなたのことホントによく見てるんだよ。そっとしてあげろって叱られた」
 確かに職責は彼の方が上。でも、年齢でひと回り以上年下の彼から指摘されたことを素直に受け止められるなんて、私にできるかしら。彼女は、いいひと。
「話せると思ったら、私でも宮下さんでも、それから京極さんでもいいから話してね。じゃあ、お昼からは溜まった申込書の送付作業を頼んでもいい? 会議室に籠ってもいいから」
「いえ、オフィスでできます」
「うん、わかった。じゃあ、お昼からもよろしくお願いします」
 彼女は丁寧に頭を下げてくれた。

 申し訳ない気持ちでいっぱい…… 私は…… 何をやってるんだろ。




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