佳矢ちゃんには相応しくないよ

 十一月二十六日、私は三十五歳になった。去年は遼ちゃんと海辺のマンションで過ごした。今年は予定のない休日を自宅で迎えている。

「誕生日だね。いくつになった?」
 母親には記念日を祝う習慣がない。三十過ぎて誕生日もないよね、という顔が見て取れる。
「三十五歳になりました。お陰様です」
「ハハハ、何もしてないよ」
 ブラックジョークも通用してない。
「去年はどうしたっけ?」
「祝って貰ってないよ、もうずっとね」
「お互い様だよ。でも、普通のご飯ってのも味気ないね。何処か出かける?」
「いい。面倒くさい」
 遼ちゃんのことを耳にして一週間。あまりの衝撃と、何も出来ない無力感から私は感情を失いつつある。目の前に起こることの全てはいずれ私の手元から過ぎ去るだけ。私が何を思おうと、物事の推移にはなんら影響を与えないのだ。

 遼ちゃんも私の手の中にはない。私がいくら夜を徹して彼を思い続けても、彼の傍にいられるのは髪の毛のサラサラした薄化粧の人で、その場所が私のものになることは絶対にない。報われない愛の結末は、こんなにも虚しいことだったのかと、今さらのように思い知らされる。

(もうどうでもいい…… )

 彼の病気のことを聞いてから、私は意外に涙を流していない。きっと、自分の想像を超えた驚きは、涙で処理できる感情を呼び起こさず、ただ呆然とするだけなのだ。
 だけどそれだけじゃない。私は彼との関係を、誰にも打ち明けられる立場にはなかった。誰かに泣いて事情を話し、思いの丈をぶつけることができないのだ。
(そういう関係だったんだね…… )
 こんな関係を誰もが肯定しないのは、私が今置かれてるような状況に陥ったとき、最も感情が揺れ動くとき、たったひとりで孤独な夜を耐え続けなければならない不幸を知っているからだ。
 支えにもなれず、心置きなく傍に寄り添うこともできず、孤独を感じたくない日々に、最も孤独を感じる不幸…… 私は今、髪の毛のサラサラした薄化粧の人に、これまでの時間の全てを復讐されている気がした。
(もうダメだ…… 好きでもダメだ…… )
 別れるとか別れないとかそんなことはどうでも良かった。私は自分の感情がどこにも捌け口を見い出せないどん底の不幸を味わい続けた。

(なんで好きになっちゃったんだろう…… )

 ベッドに横たわりそんなことを考えているうちに眠りに落ちてしまった。

 また、夢を見ている……

 ……

『この近くに父が残したマンションがあるんです。ちょっと寄ってもらってもいいですか?』
 遼平さんと房総半島を初めてドライブした日だ。一月終わりの、雲ひとつない冬晴れの日だった。
『いいけど。どこ?』
『鴨川です』
『へえ~、いい場所だね』
『私が独立したら、両親はそこで暮らす予定だったようで……』
『そう。で、今は?』
『…… 父は亡くなったので計画は中止で』
『そうだったの…… ゴメンね。余計なこと訊いたね』
『もう昔のことですから。でも、時々風を通さないといけなくて、近くに来たから、寄ってもらえると助かるな、なんてね』
『アハハハ、それならそうと言ってくれれば、朝一番にそっちに向かったのに』
『ホントに?』
『そうだよ、わざわざ内房をのんびり走ってくることないしね。高速を途中で降りて一時間程だよ』
『そうなんですね。いつも特急列車でしか来たことなくて』
『そりゃ大変だね、幕張からだと近いから、じゃあ今度はボクが代行で請け負ってあげるよ、その仕事。アハハハ』
『ホントに⁉』
『ああ、佳矢ちゃんのお願いなら』
『…… ホントに頼んじゃおっかな〜』
『あぁ、いいよ』
 あの時の横顔は笑っていた。困ったように笑っていたのか、楽しそうに笑っていたのか、どっちの笑顔だっただろう……

 …… 夢から覚めて天井を眺めている。

(どっちだっただろう…… )

 あの時の笑顔を思い出そうとしても、最後にドライブした時の横顔、少し寂しげな横顔が邪魔して思い出せない。

 マンションに着くと、彼は驚いてた。ここだったの? そう言いながら、窓辺に立って、何も言わず、ずっと海を眺め続けた。
『気に入りました?』
『…… うん』
 何かを思い出している横顔だった。その思い出はなんとなく想像できたから、口に出せなかった。口に出せず、彼の横顔から目が離せなくなった。

 海全体が黄金色に輝き、冬の短い夕暮れがあっという間に暗い闇に沈むまで、その変化の一部始終を見逃せないという様子で、彼は窓辺に佇んだままだった。

 不安になって、彼の背中に抱きついた。
『ん? ごめん、帰る時間だね』
『……』
 離したくなかった。
『ん? 遅くなるよ』
『……』
 彼は向き直ると優しく抱き締めてくれた。

『いまさらだけど、ボクは結婚してるし、もう四十歳だよ。佳矢ちゃんには相応しくないよ』
『…… 嫌いですか?』
 嫌われていたら諦めようと思っていた。好きだけど、嫌われているのに追いかけられないと思っていた。

 ……

 メールが届く。あっ‼ 遼ちゃん!

『お誕生日おめでとう。お祝いしてあげられなくてゴメンね。心から佳矢の幸せを願ってる、いつでも』
『メールしてて平気ですか⁉』
 何も考えられなくて、速攻で返信していた。
『うん。平気。でも電話が楽かな』
『電話します! いいですか?』
『いいよ』
 返事を待つまでもなく、電話していた。

 トゥルルルル …… トゥルルルル ……

 もどかしかった。わずか数回の呼出音ですら、邪魔者に感じた。
「はい…… 佳矢」
 あまりに弱々しく、ぜーぜー呼吸している様子が手に取るように伝わってきて、気を失いそうだった。
「ごめんなさい、わがままで…… 」
 泣くまいと抗っても無理だった。次々に涙が溢れ、止まらない。
「佳矢は…… 一度も…… わがままじゃ…… ……ないよ」
「私が喋る! 一方的に喋るから聞いてて!」
「…… 助かる」

 伝えよう。私のすべての気持ちをこの人に伝えよう。私はずっと好きで好きでたまらなかったと伝えよう。そう決心した。
 この人なのだ。私が愛したのは。もし、このまま会えなくても、この人が私のすべてなのだ。そのことを今、伝えておこう。
 何も考えつかなかったから、私は思いつくままを話し始めた。

 遼ちゃん…… 私はずっとあなたを思ってる。ずっと、ずっと、ずーっと、いつまでも……




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