うそぉ~~~~!

「足立さん!」

 唐澤の声は…… なんと表現すればいいのか、う~ん、上司にかける声というより、だらしない姉を諭すような、半ば優しく、半ば叱咤するような、そんな声だった。

「やり残した仕事がありますよね、ボクたちには。先日、そう伝えましたよ、ボクは‼」

(…… はて? そう言えば? 確か先日……、電車待ちの居酒屋で気勢を上げたことはあったような?……)

 今年こそやりましょう! うん! そうだね!
 頑張りましょう、今度こそ! うん! やろう! 今度こそ!

(でもさぁ、ありゃ勢い、っての? その場の雰囲気というか、そういうもんでしょ? …… それを異動拒否だなんて思わないから、誰も)

 そうでしょ? と言い返そうとしたものの、唐澤の顔があまりに真剣で、遥は思わず口ごもってしまう。

「今朝、足立さんの留任を確認して、ボクはもう一度気分を新たにしたところだったんです。よし、今年こそ日本一だ!って」


 日本一……


 そうだった…… 遥は着任早々の日のことをハタと思い出した。 新メンバーが揃ったところで、初めて持った『部下』というものを引き連れて繰り出した夜のこと。 

 そうだった……

 絶対にやってやる、負託に応える! 
 何度も何度もそう息巻いた。 挙句に……

『みんな、私を日本一にして!』

(うわっ… 思い返すと赤面しちゃう。時代錯誤も甚だしい。いくらリーダー系列に名を連ねたからって、ありゃ調子に乗り過ぎ……)

 事実、そんな自分を、古参メンバーの何人かはニヤニヤ笑って遠巻きにした。

(あちゃ~、すべった……)

 そう思った時だった。当時副主任になったばかりの唐澤が立ち上がっていきなり雄叫びをあげた。

「やりますよ、足立さん! ボクは必ずやる! 足立さんを男にする!」

 女だっちゅーに!
 そんなツッコミさえ鮮やかに蘇える。


 古い体育会系のノリで仕事をする習慣が知らぬ間に身についていた。『これからは新しい感性で、女性特有の感性で、キミの感性で、思う存分、好きに支社経営してくれたまえ』などという上司の言葉は建前だと思ってきた。
 与えられた目標をこなすのは当たり前。私にはプラスアルファーが求められている、そう感じていた。だから、「負託に応える」という言葉が自然に湧いて出た。私が変える、この会社を。男どものやりっぱなしの営業スタイルを私が変えてやる。そしてここを日本一の支社にする…… 

 そうだった……

 その思い上がりを別の新鮮なエネルギーに昇華してくれたのは、間違いなくあの時の唐澤の雄叫びで、その日から、彼は文字通り八面六臂の奮闘を続けてくれた。昼間人口の極端に少ないベッドタウンで、街の規模が拡大するにあわせて積み上げられる目標に、彼は愚痴を言うどころか常に牽引役になって支社のムードを活性化してくれた。

「足立さん、ボクたちはまだゴールに行き着いてないですよね?」

(そうだけど…… そこそこはやったよね……)

 こんな自己弁護な気持ちが芽生えたのはいつからだろう。

 いつからか、膨大な目標と日々の管理業務の多さに、そこそこやれればそれなりだよね、と思うようになっていた。

(だって、毎日終バスで帰るんだよ? その終バスの中でも、私は常に仕事のことで頭がいっぱい。できることなんてもう全部やり尽くした。そろそろ正当な評価を受けて、もうちょっといい場所に異動したい。こんな、使い捨ての場所じゃなく、もっと視野の広い仕事を……)

 そんな私を、唐澤はずっと見てきてるはずなのに……
 私の掲げた、もはや空虚ですらあるお題目を、まだ心に留めてくれてたなんて……

(なんてやつ…… 唐澤……)


 だが…… いや、だからこそ、唐澤、私はキミを異動させるのだ。

 正気を取り戻した遥は、ふたたび厳かで腹の座った声を取り戻した。

「唐澤君、キミはもっと働きたまえ。この支社のためでなく、この会社の日本一のために……」

 そう口にした途端、なぜか遥の瞳から涙がポトリと零れた。


✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤


 翌朝、オープンとなった内示を公表する頃には、もう部店内の異動情報はひろく知れ渡り、わざわざ遥が紹介するまでもなく、唐澤の栄転がその話題の中心になっていた。
 異動は日本全国津々浦々一律にガラガラポン、が建前だが、なんとなくあそこの部店との往って来いが多いよね〜、みたいな感じはあった。
 そんな中、本店への異動は誰が見てもご栄転で、現地採用のスタッフのみならず、遥にとってすら本店は文字通り遥か彼方の存在だから、唐澤に向ける皆の視線が、羨望、畏敬に近いものになるのは当然だった。大袈裟に言えば、これまで席を並べた彼が末は取締役? なんて期待も背負って、唐澤は旅立つのだ。

「えーっと、異動の引継ぎだけど……唐澤さんはここでの引継ぎが今週金曜日で、統営での引継ぎは…… 来週、七月三日ですね」

「ええええええ~~~~~~」

 来週、七月三日という日付を伝えた瞬間、この子、こんな大声出せたんだ? とビックリするほど素っ頓狂な声で、宇多がみんなを振り向かせた。

「ちょ、ちょっと宇多さん! ゴキブリでも出た?」

 出るはずのないゴキブリを引き合いに出さなきゃならないほど、彼女の悲鳴にも似た叫びは、それまでの羨望と畏敬が支配したオフィスの空気を一変させた。

「ダメです、その日は!」
「いやいや、宇多ちゃん、キミの異動チェーンじゃないから」
 支社長代理の葛原がその場を収めようとするが、興奮気味の宇多は落ち着くどころか真っ赤な顔で反論し始めた。

「ダメです。その日は先約ありです! ですよねっ、唐澤さん!」

 なんだなんだ? なんか臭うぞ! 面倒くさそ〜な話か? そんな悪い予感がしなくもない。

「何か予定あったっけ?」
 すっとぼけてスケジュール表を確認する。大口顧客との接待でもあったっけぇ~? などとブツブツ言ってみる……が、あるはずもない。

 唐澤を見る皆の顔が徐々に胡散臭い顔に曇り始める。おいおい唐澤くんよぉ〜、まさか、ラブアフェア、ってことはないよね?

「ええ…… まあその…… です。はい……」
 日ごろの唐澤からは想像できない歯切れの悪さと、真剣な面持ちの宇多の赤ら顔。その対比をどこかで懐かしく思い出した遥だったが、ここは宇多の肩を持つわけにも行かず、言葉を濁した。

「えーっと、まあね、いろいろ予定していたことが急な異動で変更を余儀なくされるってことも……まあね、一応会社勤めだからね…… それはそれとして…… あとはよろしく…… 調整お願いね。」

 ……

(どーしちゃたんだよ、遥! こんな時、どこのおっさん支社長でもいうようなセリフを吐くために、お前はこの場所に立ってんのかよぉ! もっと気の利いたこと言えないのか!)

 だが、彼女だけではない。今、この場所にいる宇多以外のメンバー全員が、唐澤の大栄転に支障などあるはずがないと思い込んでいて、まさかの事態に混乱気味なのだ。

 統営での引き継ぎより優先すべきことって何だ? まさか…… まさか? えっ、まさか???

 なぜか皆の視線は、宇多のお腹に向き始め……

 うそぉ〜〜〜〜!……




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